塩田広重(読み)しおたひろしげ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「塩田広重」の意味・わかりやすい解説

塩田広重
しおたひろしげ
(1873―1965)

大正末から第二次世界大戦直後まで指導的地位にあった外科医。京都府宮津市生まれ。1899年(明治32)東京帝国大学医科大学を卒業病理解剖学の研修を1年行ったのち外科教室に入り、スクリバ近藤次繁(つぐしげ)(1866―1944)の指導を受けた。1922年(大正11)東大第二外科の教授となる。済生学舎講義をしたり、運営の相談にあずかっており、日本医科大学の設立にも尽くし、1928年(昭和3)には東大教授のまま日本医大学長に就任した。1934年東大退官、各種の名誉職兼任した。第一次世界大戦には日赤救護班長としてフランスで医療救護にあたった。第二次世界大戦直後は厚生省医療局長として軍病院の転用にあたった。1930年浜口雄幸(おさち)首相が東京駅で狙撃(そげき)され重傷を負った際、当時まだ一般的でなかった輸血を行って手術に成功したことは有名である。1964年勲一等瑞宝(ずいほう)章受章。昭和40年4月11日死去した。

中川米造

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20世紀日本人名事典 「塩田広重」の解説

塩田 広重
シオタ ヒロシゲ

明治〜昭和期の外科医 日本医科大学名誉学長;東京帝国大学名誉教授;日本外科学会会長。



生年
明治6年10月14日(1873年)

没年
昭和40(1965)年5月11日

出生地
京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)

学歴〔年〕
東京帝大医科大学〔明治32年〕卒

学位〔年〕
医学博士(イエナ大学)〔明治44年〕

主な受賞名〔年〕
文化功労者〔昭和29年〕,東京都名誉都民〔昭和29年〕,勲一等瑞宝章〔昭和39年〕

経歴
東京帝大助手、明治35年助教授を経て、40〜42年からドイツ、オーストリアで外科病理生理学を研究。大正3年日本赤十字社フランス派遣救護班医長としてパリに滞在。帰国後の6年東京帝大附属分院長兼外科医長、12年教授に就任し、昭和3年からは日本医科大学大学長を兼務。5年東京駅で狙撃された浜口雄幸首相の手術で、まだ一般化されていなかった輸血を行った。外科学会会長、癌研究会会頭なども務め、9年東大退官。終戦後厚生省医療局長のほか、38年日本医科大学名誉学長となる。著書自伝メスと鋏」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塩田広重」の解説

塩田広重 しおた-ひろしげ

1873-1965 明治-昭和時代の外科学者。
明治6年10月14日生まれ。オーストリア,ドイツに留学し,大正12年母校東京帝大の教授,のち日本医大学長を兼任。昭和5年東京駅で狙撃(そげき)された浜口雄幸(おさち)首相を,当時は一般的でなかった輸血をおこなって手術。終戦時には厚生省医療局長をつとめた。29年文化功労者。昭和40年5月11日死去。91歳。京都出身。著作に「メスと鋏(はさみ)」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩田広重」の意味・わかりやすい解説

塩田広重
しおだひろしげ

[生]1873.10.14. 京都
[没]1965.5.11. 東京
外科学者。東京大学を卒業,同大学医学部教授となる。輸血手技,腸閉塞症,盲腸結核,胃癌,直腸癌など広い範囲にわたる研究で知られる。 1928年には日本医科大学学長に選ばれた。 30年浜口首相の狙撃事件に際して首相の治療を担当した。

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367日誕生日大事典 「塩田広重」の解説

塩田 広重 (しおた ひろしげ)

生年月日:1873年10月14日
明治時代-昭和時代の医師;外科学者。日本医科大学学長;東京帝国大学教授
1965年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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