江戸初期の旗本。通称平助,のち彦左衛門。初名忠雄のち忠教(ただたか)。16歳のとき徳川家康に仕え,諸合戦では長兄忠世に属し奮戦した。彦左衛門は終始,忠世・忠隣(ただちか)父子に従属し,一個の軍団を率いる部将ではなかった。関東入部後,忠隣の所領武蔵国埼玉郡2000石を知行。彦左衛門の人物については次の2例を示す。兄忠佐が無嗣のため沼津城2万石を彦左衛門に継がせようとしたところ,自身の軍功で得た領知でないからと辞退したという。また,大坂の陣に鎗奉行として従軍したが,役後,夏の陣で家康の旗が崩れたとする説がひろまったとき,彦左衛門は同じ場所にいたということで強く否定した。これは主家の恥が永久に伝えられることを恐れたためだという。以上,彦左衛門の気骨ある言動がのちに講談化されたのである。1632年(寛永9)旗奉行に転じた。彦左衛門は徳川氏創業を知る史書で有名な《三河物語》の著者としても知られる。
執筆者:煎本 増夫 のちに大久保彦左衛門については,《三河物語》を種本として各種の実録本が編まれた。その一つが《大久保武蔵鐙(むさしあぶみ)》(成立年未詳)で,弱者を救い,将軍・大名らに苦言を呈する〈天下の御意見番〉としての人物像が作られた。阿部豊後守の隅田川乗切りや,矢代騒動処理の逸話等々,史実としては荒唐無稽だが,質朴剛健さを失った3代将軍の世に硬骨ぶりをおし通した痛快な老武士への享受者の共感を核として,後世の講談や立川文庫に与えた影響は少なくない。歌舞伎でも,実録本・講釈をもとに,大岡政談と並称される数多くの〈大久保政談物〉が生まれ,古郡新左衛門,三輪五郎左衛門,遠雲四郎左衛門などの仮名で,伊賀越の仇討,黒田騒動,宇都宮騒動物などとも結びついて登場した。1794年(寛政6)1月大坂角の芝居《けいせい青陽𪆐(はるのとり)》(辰岡万作作)では宇都宮騒動を扱い,三輪五郎左衛門として,また1855年(安政2)7月江戸中村座《名高手毬諷実録(なにたかしまりうたじつろく)》(3世桜田治助作)では矢代騒動,鏡態院騒動などを混交させ,一心太助とともに大森彦七左衛門として活躍する。後者を訂正加筆したものが56年3月大坂中の芝居上演の《昔鐙文武功(むかしあぶみぶんぶのいさおし)》(清水賞七作)で,明治末まで上方で演じられた。ほかに83年1月東京新富座初演《芽出柳緑翠松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)》(河竹黙阿弥作),87年4月大阪中座初演《二蓋笠柳生実記(にかいがさやぎゆうじつき)》(3世勝諺蔵作),また91年6月寿座初演《吉田御殿招振袖(まねくふりそで)》(竹柴賢治作)などでは,松前屋事件,盥(たらい)登城の逸話を織りこんで舞台化がなされ,忠義一徹,頑固な老武士の性格が広く知られた。
執筆者:小池 章太郎
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※「大久保彦左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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