大久保彦左衛門(読み)おおくぼひこざえもん

精選版 日本国語大辞典 「大久保彦左衛門」の意味・読み・例文・類語

おおくぼ‐ひこざえもん【大久保彦左衛門】

江戸初期の旗本。名は忠教(ただたか)徳川家康に仕えて戦功をたてる。秀忠、家光にも仕え、旗本中に重きをなした。著に「三河物語」がある。永祿三~寛永一六年(一五六〇‐一六三九

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デジタル大辞泉 「大久保彦左衛門」の意味・読み・例文・類語

おおくぼ‐ひこざえもん〔おほくぼひこザヱモン〕【大久保彦左衛門】

[1560~1639]江戸初期の旗本。本名忠教ただたか徳川家康秀忠家光の3代に仕え、三河に2千石を領した。その知略奇行に関する多くの逸話がある。著「三河物語」。

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改訂新版 世界大百科事典 「大久保彦左衛門」の意味・わかりやすい解説

大久保彦左衛門 (おおくぼひこざえもん)
生没年:1560-1639(永禄3-寛永16)

江戸初期の旗本。通称平助,のち彦左衛門。初名忠雄のち忠教(ただたか)。16歳のとき徳川家康に仕え,諸合戦では長兄忠世に属し奮戦した。彦左衛門は終始,忠世・忠隣(ただちか)父子に従属し,一個の軍団を率いる部将ではなかった。関東入部後,忠隣の所領武蔵国埼玉郡2000石を知行。彦左衛門の人物については次の2例を示す。兄忠佐が無嗣のため沼津城2万石を彦左衛門に継がせようとしたところ,自身の軍功で得た領知でないからと辞退したという。また,大坂の陣に鎗奉行として従軍したが,役後,夏の陣で家康の旗が崩れたとする説がひろまったとき,彦左衛門は同じ場所にいたということで強く否定した。これは主家の恥が永久に伝えられることを恐れたためだという。以上,彦左衛門の気骨ある言動がのちに講談化されたのである。1632年(寛永9)旗奉行に転じた。彦左衛門は徳川氏創業を知る史書で有名な《三河物語》の著者としても知られる。
執筆者: のちに大久保彦左衛門については,《三河物語》を種本として各種の実録本が編まれた。その一つが《大久保武蔵鐙(むさしあぶみ)》(成立年未詳)で,弱者を救い,将軍・大名らに苦言を呈する〈天下の御意見番〉としての人物像が作られた。阿部豊後守の隅田川乗切りや,矢代騒動処理の逸話等々,史実としては荒唐無稽だが,質朴剛健さを失った3代将軍の世に硬骨ぶりをおし通した痛快な老武士への享受者の共感を核として,後世の講談や立川文庫に与えた影響は少なくない。歌舞伎でも,実録本・講釈をもとに,大岡政談と並称される数多くの〈大久保政談物〉が生まれ,古郡新左衛門,三輪五郎左衛門,遠雲四郎左衛門などの仮名で,伊賀越仇討黒田騒動,宇都宮騒動物などとも結びついて登場した。1794年(寛政6)1月大坂角の芝居《けいせい青陽𪆐(はるのとり)》(辰岡万作作)では宇都宮騒動を扱い,三輪五郎左衛門として,また1855年(安政2)7月江戸中村座《名高手毬諷実録(なにたかしまりうたじつろく)》(3世桜田治助作)では矢代騒動,鏡態院騒動などを混交させ,一心太助とともに大森彦七左衛門として活躍する。後者を訂正加筆したものが56年3月大坂中の芝居上演の《昔鐙文武功(むかしあぶみぶんぶのいさおし)》(清水賞七作)で,明治末まで上方で演じられた。ほかに83年1月東京新富座初演《芽出柳緑翠松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)》(河竹黙阿弥作),87年4月大阪中座初演《二蓋笠柳生実記(にかいがさやぎゆうじつき)》(3世勝諺蔵作),また91年6月寿座初演《吉田御殿招振袖(まねくふりそで)》(竹柴賢治作)などでは,松前屋事件,盥(たらい)登城の逸話を織りこんで舞台化がなされ,忠義一徹,頑固な老武士の性格が広く知られた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「大久保彦左衛門」の意味・わかりやすい解説

大久保彦左衛門【おおくぼひこざえもん】

江戸初期の旗本。名は忠雄,のち忠教(ただたか)。1576年初陣以来軍功多く,徳川家康・秀忠・家光3代に仕え,戦国の勇士として旗本間に重きをなす。著《三河物語》は主君に対する自家の功績を晦渋(かいじゅう)な文筆で懐旧する。気骨のある言動で知られ,のちに《三河物語》を種本として各種実録本が編まれる。そのなかの一つ《大久保武蔵鐙(あぶみ)》で,弱者を救い,将軍・大名に苦言を呈する〈天下の御意見番〉の人物像が作られた。→一心太助

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大久保彦左衛門」の意味・わかりやすい解説

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

[生]永禄3(1560).小田原
[没]寛永16(1639).2.1. 江戸
江戸時代初期の旗本。忠員の8男に生れ,初め忠雄,のち忠教 (ただたか) ,字は平助。天正4 (1576) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になることを固辞し,「天下の御意見番」として家康の諮問にこたえたという。のち,秀忠,家光に仕え,戦国時代生残りの勇士として旗本のなかに重きをなした。その著『三河物語』 (3巻,1622) はいわゆる三河武士の精神を典型的に示したもの。禄高は三河額田郡に 2000石。邸跡が東京都千代田区神田駿河台にある。 (→一心太助 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大久保彦左衛門」の解説

大久保彦左衛門 おおくぼ-ひこざえもん

1560-1639 織豊-江戸時代前期の武士。
永禄(えいろく)3年生まれ。大久保忠員(ただかず)の8男。徳川家康のもとでおおくの合戦にしたがう。徳川秀忠,家光の3代につかえ,戦国生き残りの勇士として旗本中で重きをなした。反骨と奇行で知られ,講談では「天下の御意見番」としてしたしまれた。寛永16年2月1日死去。80歳。三河(愛知県)出身。名は忠雄,忠教(ただたか)。通称は別に平助。著作に「三河物語」。
【格言など】御知行下されずとても,御主様に御不足に思い申すな。過去の定業なり(「三河物語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大久保彦左衛門」の解説

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

1560〜1639
江戸初期の旗本
本名,忠教 (ただたか) 。徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え,幕府創業の諸合戦に従軍して功をたてた。戦国生き残りの武士として旗本の間で尊敬された。著書に『三河物語』3巻。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「大久保彦左衛門」の解説

大久保彦左衛門
(通称)
おおくぼひこざえもん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
武蔵鐙誉大久保 など
初演
明治21.11(東京・市村座)

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
作者
福地桜痴
初演
明治26.9(東京・歌舞伎座)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大久保彦左衛門」の解説

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

大久保忠教(おおくぼただたか)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大久保彦左衛門」の意味・わかりやすい解説

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

大久保忠教

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世界大百科事典(旧版)内の大久保彦左衛門の言及

【三河物語】より

…江戸幕府の旗本大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝。上中下の3巻から成る。…

※「大久保彦左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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