太平洋戦争後の1948年におきた強盗殺人事件。1月26日午後,閉店直後の東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に〈東京都衛生課の医員〉と名のる中年男が現れ,〈付近に集団赤痢が発生したので行内を消毒する。その前に予防薬を飲むように〉と,16人の行員に青酸化合物の毒液を飲ませた。このため12人が死亡,犯人は現金約16万4400円と額面1万7450円の小切手を奪って逃げた。捜査は難航し,関東軍731部隊の関係者が洗われたりしたが,8月21日テンペラ画家平沢貞通が逮捕され,犯行を〈自白〉したと発表された。12月10日東京地方裁判所の第1回公判で,平沢は〈自白は精神的拷問の結果〉と〈犯行〉を否認した。物的証拠はなく,〈自白〉の真偽が問題になったが,50年7月24日,東京地裁は強盗殺人により死刑の判決を下した。51年9月29日東京高等裁判所は控訴を棄却,55年4月6日最高裁判所も上告を棄却,異議申立ても棄却,5月7日死刑が確定した。
1962年に作家森川哲郎らが〈平沢貞通氏を救う会〉を結成して,死刑阻止,新証拠発掘,特赦請願などの運動を進め,獄中画個展を開いた。1987年5月,刑は未執行のまま平沢は死亡した。
執筆者:川村 善二郎
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1948年(昭和23)1月26日、東京都豊島(としま)区長崎町の帝国銀行椎名町(しいなまち)支店で起こった、青酸化合物による殺人強盗事件。犯人は都の衛生課員を装い、赤痢予防薬と欺いて行員ら16名に青酸化合物入り液体を飲ませ12名を毒殺、この間に現金・小切手約18万円を奪って逃走。当初、警察は青酸化合物の扱いに熟知した人物として旧陸軍細菌部隊関係者を追ったが捜査は難航した。しかし事件発生から7か月後、捜査当局は唯一の証拠品の名刺を手掛りにテンペラ画家平沢貞通(さだみち)を小樽(おたる)で逮捕。平沢はいったんは自白したが、公判で否認し、1950年一審で死刑判決、55年最高裁で確定後も再審要求を続けた。平沢真犯人説については物的証拠に欠けるため、62年には作家の森川哲郎を中心とする「平沢貞通氏を救う会」が結成されるなど、無実を主張する運動も広がった。歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さないまま長期拘置が続いたが、平沢は刑確定32年を経た87年5月、95歳で東京の八王子医療刑務所で死亡、戦後司法制度の歴史に特異な軌跡を残した。
[小田部雄次]
『田中二郎・佐藤功・野村二郎編『戦後政治裁判史録1』(1980・第一法規出版)』
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第2次大戦後の混乱期に発生した毒物による強盗殺人事件。1948年(昭和23)1月26日夕刻,東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に中年の男が現れ,集団赤痢が発生したと偽って行員ら16人に青酸カリの溶液を飲ませ(12人死亡),この間に男は現金・小切手を奪って逃走した。その手際などから旧日本陸軍細菌部隊関係者の犯行との見方も生まれ,捜査は難航したが,同年夏,警視庁はテンペラ画家平沢貞通(さだみち)を逮捕。旧刑事訴訟法下での裁判は決定的物証を欠いたまま55年の最終審も有罪を認定,死刑判決が確定した。捜査・裁判には当初から疑問が出され,平沢救援活動も活発化したが,再三の再審請求などはすべて却下された。平沢は無罪を主張したまま95歳で獄中死。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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