平沢貞通(読み)ヒラサワ サダミチ

20世紀日本人名事典 「平沢貞通」の解説

平沢 貞通
ヒラサワ サダミチ

昭和期のテンペラ画家 帝銀事件の死刑囚



生年
明治25(1892)年2月18日

没年
昭和62(1987)年5月10日

出生地
東京・大手町

出身地
北海道

学歴〔年〕
小樽中卒,水彩画研究所

経歴
大正6年第1回二科展に入選、45歳で帝展無監査となり、テンペラ界の第一人者として2千点余りを描く。昭和23年1月26日、帝国銀行椎名町支店に初老の男が訪れ、行員16人のうち12人を毒殺、現金を奪って逃げるという“帝銀事件”が発生。7ケ月後の8月21日、犯人として逮捕された。犯行否認のまま、30年4月6日最高裁で死刑が確定。しかし自白以外に物証が乏しく、捜査当初は旧軍関係者が犯人と目されていたため、大野伴睦、松本清張ら多くの政治家、文化人の支援を得て37年“平沢貞通氏を救う会”(森川哲郎事務局長・57年12月死去)が結成された。以来再審請求18回、恩赦出願5回を数えたが、いずれも棄却。死刑囚として32年の獄中生活を送り死去、死刑制度の是非、運用について多くの議論を巻き起こした。その後も救う会により再審請求が続けられ、また同会により平成4年画集「執念の平沢画集」が刊行される。5年には事件当時押収された作品中心個展が開かれた。没後遺族らは再審の手がかりとして病理解剖を依頼するが、遺体ごと行方不明となる。平成10年東京大学医学部に脳などが保管されていることが判明、11年ぶりに遺族に返還された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平沢貞通」の意味・わかりやすい解説

平沢貞通
ひらさわさだみち

[生]1892.2.18. 東京
[没]1987.5.10. 東京
帝銀事件死刑囚,画家。著名なテンペラ画家として活躍していたが,1948年帝国銀行の東京・椎名町支店で行員 12人が毒殺され,18万円余りが奪われる事件 (帝銀事件) が発生,その容疑者として逮捕された。 34日間の厳しい取り調べを受けて一度は自白したが,公判では一貫して無実を主張。物的証拠がないまま,1955年に最高裁判所の上告棄却で死刑が確定した。弁護側は冤罪を主張し,判決に疑問をもった政治家や文化人,法曹関係者が「平沢貞通氏を救う会」を結成して救援運動を続けたが,18回におよぶ再審請求 (→行政不服審査法 ) ,5回の恩赦出願もかなわず,逮捕以来 39年,95歳で獄死する。死後,遺族から 19回目の再審請求が出された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平沢貞通」の解説

平沢貞通 ひらさわ-さだみち

1892-1987 昭和時代の画家,死刑囚。
明治25年2月18日生まれ。テンペラ画を得意とし,昭和11年帝展無鑑査となる。23年帝銀事件で逮捕され,犯行を否認したまま,25年死刑を宣告され,30年刑が確定。無実をうったえて再審請求をくりかえしたが,62年5月10日獄中で病死した。95歳。東京出身。小樽中学卒。
【格言など】平沢貞通は帝銀事件犯人ではない(遺書)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の平沢貞通の言及

【帝銀事件】より

…このため12人が死亡,犯人は現金約16万4400円と額面1万7450円の小切手を奪って逃げた。捜査は難航し,関東軍731部隊の関係者が洗われたりしたが,8月21日テンペラ画家平沢貞通が逮捕され,犯行を〈自白〉したと発表された。12月10日東京地方裁判所の第1回公判で,平沢は〈自白は精神的拷問の結果〉と〈犯行〉を否認した。…

※「平沢貞通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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