江戸後期の歌人。弥古彦(ねこひこ)、吉備雄(きびお)、楯舎(たてのや)、備前処士と号す。寛政(かんせい)12年7月3日、岡山藩陪臣平尾長春の子として妾であった母の実家備中(びっちゅう)下道郡穂北郷陶(すえ)村(岡山県倉敷市)に生まれ、まもなく父の家に戻り嫡子となったが、21歳のとき家を弟に譲る。33歳のとき藩籍を脱し、平賀左衛門太郎元義と称して岡山を去り、死に至るまで備州(びしゅう)、播(ばん)州、作(さく)州を放浪する。49歳にして備前(びぜん)磐梨(いわなし)郡稲蒔(いなまき)の神職の娘を娶(めと)り二男を得るが、病のため困窮、門人を歴訪して糊口(ここう)をしのぐ生活を続ける。1865年(慶応1)岡山藩主から翌年正月お目見えの内命あり、黒住教顧問の地位も約され窮乏生活に終止符を打つはずであったが、12月28日上道郡大多羅(おおだら)村(岡山市東区大多羅町)路上で卒中の発作をおこし、行路病者として死んだ。66歳。若年から古学を好み賀茂真淵(かもまぶち)に私淑、磊落不羈(らいらくふき)の気性と自由奔放な生活から、傾倒する『万葉集』に迫る雄健な歌を詠んだ。「月よみの光さやけみ矛(ほこ)とりて男さびする丈夫(ますらを)のとも」。異色の相聞歌によって「吾妹子(わぎもこ)先生」とよばれた。「妹(いも)が家の板戸押開き我が入れば太刀(たち)の手上(たかみ)に花散りかかる」「五番町石橋の上に我が魔羅(まら)をたぐさにとりし吾妹子あはれ」。家集『平賀元義集』。敬神尊皇の志厚く、神道関係、郷土の地理・歴史・古社に関する著述が多い。
[穴山 健]
『『校註国歌大系19』(1977・講談社)』▽『平賀元義歌と書刊行会編『平賀元義歌と書』(1980・集英社)』
江戸末期の歌人。備前国岡山藩士の子として生まれたが,家督を弟に譲り,学者として,歌人として,諸国を遊歴したりもして,奔放に生きた人物であった。歌はとくに誰かに師事することはなかったが,賀茂真淵に私淑し,独得の万葉調の歌をつくって,近代短歌に影響を与えた。〈吾妹子(わぎもこ)〉の語を多く用いたところから〈吾妹子先生〉とも呼ばれたが,尊皇の志をうたった〈ますらおぶり〉の作も多い。
執筆者:佐佐木 幸綱
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(久保田啓一)
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