デジタル大辞泉
「徳川夢声」の意味・読み・例文・類語
とくがわ‐むせい〔トクがは‐〕【徳川夢声】
[1894~1971]芸能家・随筆家。島根の生まれ。本名、福原駿雄。無声映画の弁士として名をあげ、のち、俳優や漫談家・司会者として活躍。巧みな話術を称賛された。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
とくがわ‐むせい【徳川夢声】
- 俳優、放送芸能家、随筆家。本名、福原駿雄(としお)。島根県生まれ。活動写真の弁士を経て俳優となり、NHKラジオに出演して漫談や物語朗読などに活躍。明治二七~昭和四六年(一八九四‐一九七一)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
徳川 夢声
トクガワ ムセイ
- 職業
- 放送芸能家 随筆家 俳優
- 本名
- 福原 駿雄(フクハラ トシオ)
- 別名
- 別号=夢諦軒
- 生年月日
- 明治27年 4月13日
- 出生地
- 島根県 益田市
- 出身地
- 東京市 赤坂区(東京都 港区)
- 学歴
- 東京府立一中〔明治45年〕卒
- 経歴
- 明治30年上京。小学校時代から落語や芝居に熱中し、当時から話術は非常に達者であったという。40年名門・府立一中に入学し、父が帝国党に関与した関係もあって政治家を目指すが、寄席通いが高じて学業はあまり振るわなかった。同校卒業後、旧制一高を2度受験するも失敗。そこで働きながら勉強をするため、仕事が夜だけの噺家になろうと初代三遊亭円歌に弟子入りを頼むが、政党の役員になっていた父の反対に遭い、代わりに活動写真の弁士なら暗がりで語るため顔がわからなくてよいと勧められ、大正2年弁士・清水霊山に入門、福原霊川の名で見習い弁士となった。入門3日目ではじめて活動写真の説明に立ったのを皮切りに、神田の万世館、浅草のキリン館、銀座の金春館、秋田市の凱旋座などを経て、4年東京・赤坂溜池の葵館に所属し、館名にちなみ徳川夢声に改名。5年頃から短編喜劇を集めたニコニコ大会の説明を行って徐々に人気を集め、6年には藤浪無鳴とともに帝劇で行ったトマス・H.インスの「シヴィリゼーション」の説明が好評を博した。このとき、前半を担当した藤浪が当時の弁士において重要なスタイルとなっていた前説を省いての説明を行ったのを見て、葵館に戻って前説なしの映画解説を行ったところ絶賛され、これが認められて同館の主任弁士に昇格。以来、知的で巧緻な話術により山の手のインテリ層のファンから強い支持を受け、8年の弁士番付では美文調で下町派の代表格となっていた生駒雷遊とならび、横綱に挙げられるまでに至った。10年松竹の直営館第1号である金春館の主任弁士に引き抜かれ、同年小山内薫所長の松竹キネマ研究所製作第一作「路上の霊魂」でも説明を担当。関東大震災後は一時東洋キネマの経営に当たるが赤字続きのため人手に売り渡し、14年からは新宿の武蔵野館に属した。傍ら同年の東京放送局開局当時からラジオにも出演し、物語を朗読。昭和2年大辻司郎、山野一郎、松井翠声、古川ロッパらとナヤマシ会を組織し、漫談や寸劇などにも乗り出した。やがて映画もトーキーの時代になると弁士不要の時代の到来を予見し、8年武蔵野館退職を期に俳優に転向。同年緑波、山野らと笑の王国を結成し、浅草・常盤座で旗揚げ。これには小杉勇や島耕二、演出部員として田坂具隆らも参加し、田坂作の「昭和新撰組」や緑波作の「凸凹放送局」がヒットした。また同年P.C.L.(写真化学研究所 東宝)の木村荘十二演出の「ほろよい人生」以来、銀幕にもたびたび登場し、木村監督の「彦六大いに笑ふ」、山本嘉次郎監督「坊っちゃん」「吾輩は猫である」「綴方教室」、斉藤寅次郎監督「水戸黄門漫遊記」、千葉泰樹監督「彦六なぐらる」、成瀬巳喜男監督「はたらく一家」などに出演した。12年には久保田万太郎、岸田国士、岩田豊雄(獅子文六)らと文学座の結成に加わり、その第1回公演では杉村春子と二人きりでクルトリーヌ作の「我家の平和」を演じ、高い評価を受けた。14年NHKラジオで吉川英治の「宮本武蔵」を朗読し、絶妙な間のとり方で“間を以て生命とする”という余人の追求を許さぬ新しい話芸のスタイルを確立。戦後も引き続いて俳優、朗読家、漫談家、タレント、司会者として活躍、ラジオでは21年から39年までNHKで放送された長寿番組「話の泉」、テレビでは29年の「こんにゃく問答」、30年の「雨・風・曇」、32年の「私だけが知っている」などにレギュラー出演してお茶の間に親しまれた。映画は阿部豊監督「僕の父さん」、小石栄一監督「踊子物語」、清水宏監督「母情」、吉村公三郎監督「自由学校」、福田晴一監督「伴淳・アチャコ・夢声の活弁物語」などに出演、最後の仕事は44年の「臍殿下」における声の出演であった。また“雑学の大家”と言われたほどの該博な知識と、独特のユーモアの持ち主で、風俗評論や随筆、俳句などでも手腕を発揮し、24年には直木賞候補にも挙げられた。対談・座談の名手としても名高く、24年「文芸春秋」に掲載されたサトウハチロー・辰野隆との天皇会見録「座談会 天皇陛下大いに笑ふ」は大きな評判を呼んで第1回文芸春秋読者賞を獲得、26年より「週刊朝日」でスタートした連載対談「問答有用」は8年400回に及ぶロングランとなった。その他、日本放送芸能家協会理事長、ゆうもあくらぶ会長、明治村村長などを歴任。「夢声漫談」「夢声戦争日記」「あかるみ十五年」「くらがり二十年」「いろは交友録」「話術」など著書も数多い。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和32年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和42年〕 NHK放送文化賞〔昭和25年〕,菊池寛賞〔昭和30年〕,東京都名誉都民〔昭和40年〕
- 没年月日
- 昭和46年 8月1日 (1971年)
- 伝記
- 昭和―僕の芸能私史徳川夢声と出会ったラジオドラマの黄金時代あの人この人―昭和人物誌なんだか・おかしな・人たちなつかしい芸人たち徳川夢声とその時代 永 六輔 著濱田 研吾 著西沢 実 著戸板 康二 著文芸春秋 編色川 武大 著三国 一朗 著(発行元 光文社晶文社河出書房新社文芸春秋文芸春秋新潮社講談社 ’04’03’02’96’89’89’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
徳川 夢声
トクガワ ムセイ
大正・昭和期の放送芸能家,随筆家,俳優
- 生年
- 明治27(1894)年4月13日
- 没年
- 昭和46(1971)年8月1日
- 出生地
- 島根県益田市
- 出身地
- 東京・赤坂
- 本名
- 福原 駿雄(フクハラ トシオ)
- 別名
- 別号=夢諦軒
- 学歴〔年〕
- 東京府立一中〔明治45年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- NHK放送文化賞〔昭和25年〕,菊池寛賞〔昭和30年〕,紫綬褒章〔昭和32年〕,東京都名誉都民〔昭和40年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和42年〕
- 経歴
- 明治30年上京。大正2年清水霊山に入門して無声映画の弁士となる。昭和8年古川緑波、山野一郎らと“笑の王国”を結成。12年文学座の結成に参加。話劇俳優として卓抜な演技をみせ、映画にも多く出演。14年のNHKラジオの物語朗読「宮本武蔵」などで、新しい話芸のスタイルを完成させ、全国的な人気も得る。戦後は軽い風俗評論、随筆、俳句などにも才能を発揮、特に「週刊朝日」に連載した対談「問答有用」で新形式の読み物を生み出した。また21年から39年までNHK「話の泉」のレギュラーをつとめるなど幅広く活躍した。一方、8年頃から俳句に親しみ始め、いとう句会を中心に句作を続けた。「句日記」「雑記・雑俳25年」の句集がある。著書に「夢声戦争日記」「夢声自伝」「明治は遠くなりにけり」など多数。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
徳川夢声【とくがわむせい】
放送芸能家,俳優。本名福原駿雄(ふくはらとしお)。島根県生れ。1913年から映画説明者(活弁)となり,トーキー出現後は漫談家,俳優として映画・舞台に活躍。ことに吉川英治原作《宮本武蔵》の朗読で話術に独自の境地を開いた。俳優として〈笑いの王国〉〈文学座〉などに出演したほか,テレビ・ラジオの司会も多く務めた。1957年紫綬褒章。著書《くらがり二十年》《話術》《問答有用》等。
→関連項目古川緑波|丸山定夫|漫談
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
徳川夢声 (とくがわむせい)
生没年:1894-1971(明治27-昭和46)
映画説明者・著述業・漫談家。本名福原駿雄。島根県の生れ。東京府立一中を卒業後,無声映画時代に映画説明者(いわゆる活弁)となり,気のきいた説明で欧米映画の名説明者として知られていた。トーキー時代になって失業,しかし,漫談や放送(ラジオ)芸能に転向して,吉川英治の《宮本武蔵》の朗読などで,人気を得た。また俳優としても〈笑いの王国〉〈文学座〉などに出演して,卓抜な演技を見せた。ジャーナリズムでも,文筆,対談の分野に才能を示したほか,晩年はテレビの司会も多く行った。著書に《自伝夢声漫筆》ほかがある。
執筆者:藤田 洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
徳川夢声
とくがわむせい
(1894―1971)
俳優、放送芸能家。本名福原駿雄(としお)。島根県生まれ。東京府立一中卒業後、活動写真の弁士(無声映画説明者)を志し清水霊山に弟子入り、のち赤坂葵(あおい)館、新宿武蔵野(むさしの)館の各主任弁士を務める。トーキー出現後は、「笑の王国」や文学座の旗揚げに参加、また丸山定夫らと苦楽座を結成するなど俳優として活躍する一方、NHKラジオに出演、漫談、物語などに独特の境地を開き、第二次世界大戦後はラジオの「話の泉」の解答者として親しまれた。映画出演も多い。テレビにも初期のころから出演、司会、対談など多芸多才ぶりを発揮した。文才にもたけ、著書、随筆も多い。第1回NHK放送文化賞、菊池寛賞、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞。明治村の村長も務めた。
[向井爽也]
『『夢声自伝』全三巻(1978・講談社)』▽『三国一朗著『徳川夢声の世界』(1979・青蛙房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
徳川夢声
とくがわむせい
[生]1894.4.13. 島根
[没]1971.8.1. 東京
放送芸能家,俳優。本名福原駿雄。無声映画時代弁士 (説明者) をつとめ,その後漫談,朗読話術にすぐれた才能を発揮した。 1913年芝の第二福宝館主任弁士清水霊山の門下となり,日活専属で葵館の弁士をつとめ,22年東洋キネマ武蔵野館専属となる。トーキーの出現により,33年弁士を廃業。「笑いの王国」を,古川緑波,大辻司郎,菊田一夫らと発足させる。 37年文学座の創立に参加し,42年には丸山定夫,薄田研二らと苦楽座を結成,映画にも多数出演しているが,俳優としてよりはむしろラジオドラマ『宮本武蔵』『西遊記』などの朗読に新境地を開いた功績が大きい。 50年放送文化賞,54年菊池寛賞,57年紫綬褒章受章。著書に『くらがり二十年』 (1934) などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
徳川夢声 とくがわ-むせい
1894-1971 大正-昭和時代の活動弁士,俳優,漫談家。
明治27年4月13日生まれ。無声映画の弁士をへて昭和8年古川緑波(ろっぱ)らと劇団「笑の王国」を結成。14年からラジオで吉川英治の「宮本武蔵」を朗読,話芸の達人といわれた。戦後はNHKのラジオ「話の泉」,テレビ「こんにゃく問答」などに出演。随筆,俳句にもすぐれた。昭和46年8月1日死去。77歳。島根県出身。東京府立第一中学卒。本名は福原駿雄。
【格言など】おい,いい夫婦だったなあ(死の直前に枕もとの妻へ)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
徳川 夢声 (とくがわ むせい)
生年月日:1894年4月13日
大正時代;昭和時代の放送芸能家;随筆家
1971年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の徳川夢声の言及
【配給制度】より
…人々は配給のみでは生存さえ脅かされるようになり,家族ぐるみでの買出しに精を出さざるをえなかった。そのようすを徳川夢声は《夢声戦争日記》第3巻のなかで,〈一体全体日本の国民で,ヤミというものから全然無関係で生活しているものがあるか,ない,絶対にないと思う。ただ程度の差である〉と述べている。…
【プログラム】より
… なお,このような事情は演劇の場合もほぼ同様であると言ってよいが,日本ではかつて歌舞伎において〈[番付]〉が大いに発達したことは特筆される点である。【成沢 玲子】
[プログラムが持つ意味]
かつての無声映画全盛時代,活動弁士として活躍した[徳川夢声]は,映画ではそれまでほとんど行われていなかったプログラムの作成・頒布というアイデアによって,大いにその声価を高めたといわれている。1917年(大正6),彼は東京・赤坂の葵館において,活弁の通例であった開映前の解説(=前説(まえせつ))を廃し,その代りに4ページ立ての解説プログラムを作成した。…
【漫談】より
…活動弁士の中で,映画の場面を見ながら当意即妙のせりふを投げ込んで笑わせる何人かが,その人気を背景に,映画から独立して,口頭の滑稽話をするようになったのが漫談である。この一人話芸の形式は,弁士出身の[徳川夢声]によって創始され,名付親は,同じく弁士の大辻司郎(1896‐1952)である。彼の,〈……デアルデス〉と繰り返す語り口が昭和初期の軍国主義一色に染まる前の不安定な大衆心理に迎えられ,寄席に出演するだけでなく,レコードにも吹き込まれ,口まねをする子どもも多かった。…
※「徳川夢声」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」