精選版 日本国語大辞典 「岸田国士」の意味・読み・例文・類語
きしだ‐くにお【岸田国士】
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劇作家、演出家、小説家。明治23年11月2日東京・四谷(よつや)に生まれる。父と同じ軍人を志し、陸軍士官学校に進んだが、文学に親しみ、軍隊生活に反発し、退役して東京帝国大学仏文科に学ぶ。演劇研究のために渡仏、コポーの影響を受けて1923年(大正12)に帰国。翌年、パリで書いた戯曲『古い玩具(がんぐ)』を発表して文壇に登場したが、彼の関心事は、在来の新劇運動を批判し、フランスで学んだ演劇観を日本の土壌に移植することにあった。なによりもまず、語られることばの魅力、それによる「人間の魂の微妙な旋律」に演劇の本質的な魅力があることを主張して、『チロルの秋』(1924)や『紙風船』(1925)などの戯曲を発表した。その犀利(さいり)で繊細なニュアンスの会話は注目された。『牛山ホテル』(1929)、『沢氏の二人娘』(1935)はその集大成である。一時、戯曲の執筆を中断し、新聞小説『由利旗江(ゆりはたえ)』(1929~30)、『暖流』(1938)などを書く。この間、私淑するルナールの『にんじん』をはじめ、近代フランス戯曲の翻訳も多い。
1932年(昭和7)友田恭助(きょうすけ)・田村秋子の築地(つきじ)座の指導、同年『劇作』を創刊。37年に久保田万太郎、岩田豊雄(とよお)とともに文学座を創設。第二次世界大戦中には大政翼賛会文化部長に就任。戦後は『椎茸(しいたけ)と雄弁』『道遠からん』(ともに1950)などの社会風刺喜劇を書くとともに、芸術家集団「雲の会」を結成、幅広い演劇運動を展開しようとした。53年、芸術院会員となったが、翌54年(昭和29)3月4日文学座公演『どん底』の演出中急逝。新劇運動にあって、いわゆる「芸術派」の理論的指導者としての功績は大で、それをしのんで新潮社が「岸田演劇賞」を創設、第8回から白水社に移って「岸田戯曲賞」となり、新人劇作家の登竜門となっている。長女は詩人岸田衿子(えりこ)、次女は女優岸田今日子(きょうこ)。
[加藤新吉]
『『岸田国士全集』全10巻(1954・新潮社)』▽『渡辺一民著『岸田国士論』(1982・岩波書店)』
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…その上演55演目中,16演目がフランス近代心理劇を主体にする西欧近代戯曲で,39演目が日本の創作戯曲だった。かつて築地小劇場が開場したころ,日本の既成戯曲は当分(2年間),上演しないと宣言した小山内薫に対し,菊池寛,山本有三,岸田国士,久保田万太郎ら,当時,台頭しだした近代的劇作家たちは雑誌《演劇新潮》に拠って,大いに反発を示し,論争を展開した。そして1930年代になると,岸田,久保田を師とする若手劇作家群が劇作専門の雑誌《劇作》に拠って続々と登場し,この《劇作》派の戯曲が築地座で次々と初演された。…
…岸田国士(くにお)の戯曲。一幕物。…
…1947年(昭和22)11月に早川書房より創刊。誌名は1928‐29年に刊行された岸田国士(くにお)主宰の西欧演劇紹介を主とする雑誌名を譲り受けた。敗戦後の新劇復興期には,新人劇作家の育成を目的に戯曲研究会を主催する一方で,草創期の高校演劇や青年演劇などアマチュア演劇育成にも大きな貢献を果たした。…
…死の2ヵ月前まで24年もの間書き続けられた《日記 1887‐1910》(1925‐27)は,現代のモラリストの自己を含めた人間省察の書であり,またこの時代の文壇・劇壇の貴重な記録・証言でもある。ルナールの作品は,1924年岸田国士によって《葡萄畑の葡萄作り》(1894)が翻訳されて以来,《日記》も劇も岸田国士によって紹介され,日本の新劇界に大きな影響を与えた。【高木 進】。…
※「岸田国士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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