平安末~鎌倉初期の武将。源為義の十男。本名義盛。源義朝の弟,頼朝の叔父。熊野新宮に住んだので〈新宮十郎〉と呼ばれ,1180年(治承4)4月八条院蔵人(くろうど)に補せられたとき改名,以後は十郎蔵人と呼ばれた。同年5月に挙兵した以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を諸国源氏に伝え,挙兵を促したといわれる。源頼朝にいれられず,源義仲と結んで83年(寿永2)平氏西走後の京都に入り,従五位下備後守に任叙され,数日後備前守に遷任した。この際,勲功賞が義仲の従五位上左馬頭(さまのかみ)兼越後守に劣るとして忿怒し,閉門辞退したと《玉葉》に記されている。ほどなく義仲と対立,やがて京に接近した源義経と結び,平氏滅亡(1185)後,兄頼朝と対立した義経とともに頼朝追討宣旨を得る。義経と摂津大物浦(だいもつのうら)から船で西海に赴こうとしたが遭難,和泉に隠れた。翌年幕府の討手北条時定,常陸房昌明に発見され,5月12日梟首(きようしゆ)された。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安末期~鎌倉初期の武将。為義(ためよし)の子で、頼朝(よりとも)の叔父にあたる。本名義盛(よしもり)。保元(ほうげん)の乱(1156)に父為義が敗れてのち、熊野新宮(くまのしんぐう)に隠れ、新宮十郎と称した。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)を奉ずる源頼政(よりまさ)に召し出され、名を行家と改め、山伏(やまぶし)姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨(りょうじ)を伝えた。まもなく以仁王、頼政は敗北し、行家は尾張(おわり)、三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたがいれられず、やがて行家は木曽義仲(きそよしなか)と結んだ。83年(寿永2)義仲とともに入京、後白河(ごしらかわ)法皇に謁し、従(じゅ)五位下備前守(びぜんのかみ)となった。しかしその後義仲と対立するに至り、紀伊(きい)に退いた。平氏滅亡(1185)後は頼朝と不和となった源義経(よしつね)に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎(あまがさき)市)をたったが、大風にあって遭難、和泉(いずみ)に隠れたが、翌年関東の討手常陸房昌明(ひたちぼうしょうみょう)に攻められ、文治(ぶんじ)2年5月12日赤井河原で斬(き)られた。
[田辺久子]
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(澤野泉)
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…熊野三山を現地で支配した別当家の一つも新宮におり,田辺の別当家としばしば勢力を競った。源平合戦に東海で挙兵した源行家も新宮十郎と称するように,平治の乱後,この地に逃れて成長したといわれる。戦国時代には堀内氏が台頭し,紀州に進攻した織田信長,豊臣秀吉に忠誠を誓って熊野地方を支配したが,関ヶ原の戦で没落した。…
…反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか,源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。83年(寿永2)3月,義仲は長子源義高(11歳)を人質として鎌倉の頼朝のもとに送る。…
※「源行家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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