日本歴史地名大系 「粟鹿神社」の解説
粟鹿神社
あわがじんじや
粟鹿集落内に鎮座、広々とした境内地をもつ。式内社。但馬国一宮あるいは二宮とされた。旧県社。現祭神は彦火火出見尊。和銅元年(七〇八)八月一三日勘注と記される「粟鹿大神元記」によれば、垂仁天皇の時代に大国主神の子天美佐利命が荒振る大神であるので、大彦速命が朝廷に祀りを望んだ結果鎮まり、大彦速命の曾孫が神部直姓を賜り但馬国造に定めたことが記されており、ここから天美佐利命を祭神とする説がある。また粟鹿嶺の白鹿の角の間に粟が生えたので、字を粟鹿大神としたとある。また田道間国造日下部足尼家譜大綱(社蔵文書)には日下部氏が但馬国造に任じられたとあり、「古事記」開化天皇の段に開化天皇の皇子日子坐王の子沙本古王は日下部連の祖とあり、その玄孫の大多牟坂王が多遅摩の国造の祖とあるところから、祭神を四道将軍の一人丹波道主に任じられた日子坐王とする説もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報