日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒羽藩」の意味・わかりやすい解説
黒羽藩
くろばねはん
下野(しもつけ)国(栃木県)黒羽に居所を置いた外様(とざま)小藩。常陸(ひたち)の土豪出身といわれる大関氏は戦国時代末期には、大田原氏と並んで北那須(きたなす)衆を代表する有力豪族に成長していた。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の小田原攻めに際し、大関高増(たかます)・晴増(はるます)の親子は、宗家那須氏の態度が定まらぬうちに、北那須衆を伴って参陣し、旧領1万3000石を安堵(あんど)された。関ヶ原の戦い後、1600年(慶長5)と02年に加増され、下野国那須・芳賀(はが)郡、陸奥(むつ)国石川郡内で2万石を領有した。晴増のあと増勤(ますのり)まで16代、約300年間、一貫して旧領を維持し続けた関東では希有(けう)の旧族大名となった。1646年(正保3)増親(ますちか)のとき弟2人に1000石ずつ分知したので表高1万8000石となった。
寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)期(1661~81)に実施した領内総検地で藩士地方知行(じかたちぎょう)の制限と実高増大を行い、藩体制を確立したが、その後、領内農村の衰微が著しく、明和(めいわ)~寛政(かんせい)期(1764~1801)には家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)、化政(かせい)期(1804~30)には藩主増業(ますなり)の改革が実施されたが、領内の荒廃と財政の窮迫は改善されなかった。増業編纂(へんさん)の『創垂可継(そうすいかけい)』(1817)は藩政資料を集大成して藩治の指針としようとしたものであった。1862年(文久2)に家督を継いだ大関増裕(ますひろ)は、百事一新、富国強兵と称して藩政改革を断行、幕閣にあっても講武所奉行(ぶぎょう)、陸軍奉行、若年寄(海軍奉行兼任)を歴任した。戊辰(ぼしん)戦争で官軍の先兵となり、1869年(明治2)賞典禄(ろく)1万5000石を与えられた。71年廃藩、黒羽県、宇都宮県を経て、73年栃木県に編入。
[阿部 昭]