台湾問題(読み)たいわんもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾問題」の意味・わかりやすい解説

台湾問題
たいわんもんだい

台湾地域を中華民国政府が支配し、中国大陸の中華人民共和国(中国)政府は「台湾解放」「台湾の統一」を主張し続けているという、いわゆる「二つの中国」の問題を一般に台湾問題という。中国革命の結果、1949年10月に中国共産党指導下の中華人民共和国が成立し、中国国民党指導下の中華民国政府は、同年末台湾に逃れて、台北(タイペイ)を首都に台湾本島および澎湖(ほうこ)島などの付属諸島と大陸沿岸の金門島・馬祖島を統治して今日に至っている。

中嶋嶺雄

国際政治上の台湾問題

こうして、現実には「二つの中国」が存在するが、中華人民共和国政府(北京(ペキン)政権)も中華民国政府(台北政権)もそれを認めず、「一つの中国」の原則にたってきたために、台湾問題は単に中国民族の統一という内政上の課題にとどまらず、国際政治上のイシュー(焦点)として大きな問題を投げかけてきた。国連中国代表権問題や中国承認問題がそれである。こうした台湾問題は第二次世界大戦後のアジアの冷戦、とくに米中対決構造のなかで、1950年6月に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争以来、アメリカが台湾の中華民国政府(総統蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー))を承認・支援し、1954年12月には米華相互防衛条約を結んで台北政権をアメリカの世界戦略と結び付けたことによって、さらに大きな問題になった。北京政権が、こうしたアメリカの態度を内政干渉だと一貫して非難したことはいうまでもない。

 中華人民共和国成立後、社会主義諸国やいわゆる第三世界諸国、西側諸国ではイギリスなどが早くから中華人民共和国を承認し、国交を樹立したが、日本は、1952年(昭和27)4月、日華平和条約(日台平和条約)を結び、台北政権を承認してきた。こうした情勢のなかで、1958年夏には台湾海峡危機が訪れ、戦争の瀬戸際に至ったが、台湾海峡危機は、核時代の到来に直面した米・中・ソ3大国がそれぞれの思惑から自己の世界戦略を検証するための一種の「模擬戦争」でもあった。

 やがて1960年代になると、社会主義兄弟国どうしの中ソ両国が激しく対立し、中ソ冷戦とも思われる情勢が表面化した。この間、中華人民共和国を国際社会から締め出しておくことの不当性についての認識は国際的にさらに高まり、1971年10月の国連総会は、中国支持派のいわゆるアルバニア決議案を可決して、ここに中国の国連代表権問題は決着し、台北政府は国連を脱退した。一方、中ソ対立の激化は米中接近を促すこととなり、1972年2月、ニクソン米大統領が訪中して米中共同声明を発し、台湾の現状を認めつつも台湾が中国の一部であること、アメリカが台湾から軍事力を撤去することなどが約束された。米中接近という突然の変化に衝撃(いわゆる「ニクソン・ショック」)を受けた日本も、同年9月、田中首相が訪中して日中共同声明を出し、中華人民共和国と国交を樹立した。台北政権はこれに抗議して日本と断交し、以後、台湾との関係は民間関係として存続することとなった。

[中嶋嶺雄]

中国内政上の台湾問題

こうして国際政治上の台湾問題は当面の決着をみたが、台湾との統一という中国内政上の台湾問題は依然として解決できなかった。中国大陸が毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)政治の桎梏(しっこく)下に置かれ、文化大革命の混乱を経験したことは台北政権側にとっては有利な情勢であった。こうしたなかで1981年9月、中国全国人民代表大会常務委員長の葉剣英(ようけんえい/イエチエンイン)はいわゆる9項目提案を公表して、第三次国共合作を呼びかけた。しかし、台湾側の蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)政権はこれを拒否し、かつての「大陸反攻・光復中華」のスローガンにかわって「三民主義」による中国との統一を呼びかけた。中国の指導者鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)らはその後も「台湾解放」を強調し、武力解放の可能性にもしばしば言及していたが、現実には台湾解放はますます遠のいてしまった。台湾がいまやアジアNIES(ニーズ)(新興工業経済地域)のリーダーとして、中国大陸の数十倍の経済的豊かさをもつことが決定的に大きな問題であり、台湾では、国共合作としての「台湾問題」よりも、台湾内部の「国台合作」(大陸からきた外省人と台湾在来の本省人との協力)が重要な課題になってきた。

[中嶋嶺雄]

李登輝体制以降の台湾問題

こうした時期に、総統の蒋経国が1988年1月に死去し、台湾人(本省人)の副総統李登輝(りとうき/リートンホイ)が昇格して総統に就任し、中華民国の民主化と台湾化を積極的に推進する新生台湾が出現した。李登輝は1991年2月、国家統一綱領を確定し、同年5月には1948年以来のいわゆる「中国敵国条項」を中止し、中国側を政治実体として認めるとともに従来の反共政策を大きく転換した。一方、民間レベルで海峡交流基金会(理事長辜振甫(こしんほ/クーチェンフー))を設立、中国側の海峡両岸関係協会(会長汪道涵(おうどうかん/ワンダオハン))との間で1993年4月に海峡両岸会談(中台会談)がシンガポールで行われ、同年10月には2回目の両岸会談が上海(シャンハイ)で行われた。しかし、中国側は、台湾の国際的地位の向上や実務外交の進展が「台湾独立」に連なるのではないかと反発しており、1996年3月に台湾で史上初の総統・副総統直接選挙が挙行されるに際し、ミサイル発射演習を含む軍事威嚇を断行、台湾海峡危機が招来された。選挙結果は、李登輝と副総統の連戦(れんせん/リエンチャン)コンビの圧勝に終わり、アメリカは空母2隻を派遣して中国を牽制(けんせい)した。中国側は、1997年7月の香港返還に用いた「一国両制(一国二制度)」の方式を台湾にも呼びかけたが、台湾側は現状維持と中国の民主化を求めていた。

 このような状況下で李登輝は、1999年7月、中国との関係を「特殊な国と国との関係」と規定し、台湾があくまでも主権国家であることを明言した。この主張に中国側は猛反発し、李登輝を「台湾独立分子」と激しく非難した。こうして台湾海峡の緊張が高まるなかで迎えた2000年3月の総統・副総統選挙では、最大野党の民主進歩党(民進党)の陳水扁(ちんすいへん)・呂秀蓮(りょしゅうれん/ルーシウリエン)コンビが勝利し、連戦を候補にたてた国民党は歴史的な敗北を喫した。李登輝は責任をとってただちに国民党主席を辞任したが、陳水扁政権は李登輝路線の継承を明らかにしている。直接選挙による民主的な政権交代は、中華世界で歴史上初めてのことであり、その意義は大きい。それだけに中国との溝は大きく、台湾問題は依然として未解決かつ重要な国際問題として存在し続けるであろう。

[中嶋嶺雄]

『中嶋嶺雄著『中国・台湾・香港』(1999・PHP研究所)』『中嶋嶺雄著『中国――歴史・社会・国際関係』(中公新書)』『井尻秀憲著『台湾経験と冷戦後のアジア』(1993・勁草書房)』

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