李登輝(読み)リトウキ

デジタル大辞泉 「李登輝」の意味・読み・例文・類語

り‐とうき【李登輝】

[1923~2020]台湾政治家。日本統治下の台湾に生まれ、京都帝国大学農学部で学ぶ。第二次大戦後中国国民党に反発していたが、農業の専門家として蒋経国抜擢され、1971年に入党。以降、累進し1984年に蒋の副総統となる。1988年、蒋の死去により総統に。1996年、初の直接選挙にも勝利し2000年まで務める。退任後は台湾独立の主張を強め、2001年に国民党を除籍された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「李登輝」の意味・わかりやすい解説

李登輝
りとうき / リートンホイ
(1923―2020)

台湾(中華民国)の政治家。学者。1988年から2000年まで総統を務める。台北(タイペイ)市北郊(台北県三芝郷)の農家に生まれる。日本統治下で旧制の台北高等学校を卒業後、京都帝国大学(現、京都大学)農学部農林経済学科に入学、戦争のため砲兵(高射砲隊)に志願した。第二次世界大戦後は台湾大学で農業経済学を専攻し、卒業後、アメリカのアイオワ州立大学に留学、1968年にはコーネル大学で博士号を取得。学位論文「台湾における農工間の資本流通」は、全米農業経済学会最優秀論文としてたたえられた。前後20年にわたって台湾大学で教鞭(きょうべん)をとりつつ農業改善に貢献、その手腕を総統蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)に認められて行政院政務委員(国務大臣)に抜擢(ばってき)されたのち、1978年台北市長、1981年台湾省主席となり、1984年副総統に就任した。1988年1月、蒋経国の死により台湾出身の最初の総統に就任し、同年7月中国国民党党主席に選出される。以後、自由・民主・均富という「現代の三民主義」を掲げて中華民国の台湾化と政治制度の民主化に尽力し、1996年3月には総統・副総統の直接選挙を中国史上初めて実現した。このような民主主義の大実験に対して中国政府は三次にわたるミサイル実射演習などの「文攻武嚇」の圧力を加えたが屈せず、圧倒的多数を得て当選した。台湾の民主化と台湾人としてのアイデンティティーの形成に努めたが、1999年7月には中国との関係を「特殊な国と国との関係」と発言し、中国側の猛反発を受け、両岸関係の緊張は高まった。その後、李登輝の後任を決める2000年3月の総統直接選挙で、国民党候補の連戦(れんせん/リエンチャン)(1936― )が民主進歩党民進党)の陳水扁(ちんすいへん)候補に大敗したため、率先して党主席を辞任した。台湾の今日の発展をリードした学者政治家としてその名声は高く、「愛心と信心」をモットーとするクリスチャンでもある。

[中嶋嶺雄]

『李登輝著『愛と信仰――わが心の内なるメッセージ』(1989・早稲田出版)』『李登輝著『台湾の主張』(1999・PHP研究所)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「李登輝」の意味・わかりやすい解説

李登輝【りとうき】

台湾の政治家。台北県出身。京都大,台湾大卒。米コーネル大で農学博士号を取得。1956年台湾大助教授。1972年行政院政務委員として政界に入る。台北市長,台湾省政府主席を歴任し,1984年副総統,1988年1月蒋経国総統の死去により,総統に就任。初の台湾出身の総統となる。同年中国国民党主席に就任,1990年3月正式に第8代総統に任命される。1994年の憲法改正により実施された1996年3月の初の総統直接選挙において,国民党大統領候補として民進党の彭明敏候補と争い,当選した。台湾出身の総統として従来の国民党の大陸統一化路線とは異なる独自外交を展開する姿勢をみせており,中国はそれを独立志向ではないかと警戒感を強めていた。2000年3月の総統選挙で国民党の連戦副総統が民進党の陳水扁前台北市長に敗れたため,李は国民党主席を辞任した。
→関連項目辜振甫二・二八事件

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李登輝」の意味・わかりやすい解説

李登輝
りとうき
Li Deng-hui

[生]1923.1.15. 台北
[没]2020.7.30. 台北
台湾の政治家。総統(在任 1988~2000)。日本の京都帝国大学に学んだのち,1948年台湾大学農業経済学部卒業。1952年アメリカ合衆国に留学,農業経済学を専攻した。1953年台湾に戻ったのち台湾大学で教鞭をとる一方,台湾省農林庁や台湾農業復興委員会の幹部を歴任。1965年アメリカのコーネル大学に留学,1968年に博士号を取得。帰国後,農業復興委員会に戻り,台湾農業に関する意見が当時の行政院副院長,蒋経国に注目され,1972年行政院政務委員に任命された。1978年台北市市長,1981年台湾省政府主席。1984年5月蒋経国の推薦により中華民国副総統に就任,1988年1月13日蒋経国の死去により,初めて本省人の総統となった。同 1988年7月に中国国民党主席に就任した。以後,台湾政治の民主化,本土化が急速に進められ,大陸との交流もしだいに拡大したが,共産党の統一交渉の呼びかけに対して「交渉しない,談判しない,妥協しない」の三不政策を堅持し,外交面において経済力を背景に「弾性外交」「二重承認」を進めた。1996年3月,台湾初の総統直接選挙で当選を果たすと,台湾の民主化ならびに独自化を推進。1999年には中国と台湾を「国と国との関係」と規定した中台「二国論」を発表,中国の反発を招いた。2000年3月の総統選挙で連戦を擁立した国民党は民主進歩党に大敗,その責任をとり党主席を辞任した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

知恵蔵mini 「李登輝」の解説

李登輝

台湾の政治家。1923年、日本統治下の台湾台北州で生まれる。京都帝国大学(現・京都大学)に進学し、太平洋戦争中は旧日本陸軍に入隊した。戦後は台湾に戻って台湾大学を卒業し、米国にも留学して農業経済学博士号を取得した。その後、中国国民党の蒋経国(しょうけいこく)に農業の専門家として抜擢され、71年に入党し政界に入った。84年、当時総統を務めていた蒋の副総統となり、88年、蒋の死去に伴って総統に就任した。同党の主席も兼務して台湾の民主化を進め、外交も積極的に展開した。96年には台湾初の直接選挙による総統選で勝利し、2000年まで総統を務めた。退任後は台湾独立の主張を強め、01年には同党の主席も退いたものの、以後も政界で大きな影響力を示した。親日家としても知られ、度々、日本を訪れて講演なども行っていたが、20年7月30日に死去した。享年97。

(2020-8-4)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「李登輝」の解説

李登輝(りとうき)
Li Denghui/Lee Teng-hui

1923~

台湾の政治家。中国国民党主席。中華民国の第8・9代総統(在任1988~2000)。台湾淡水出身。台湾大学農業経済系卒業。台湾大学教授などをへて蒋経国(しょうけいこく)の抜擢で72年入閣,78年台北市長,81年台湾省政府主席,84年第7代副総統。88年1月蒋経国総統の死去で総統に就任。国会の全面改選,総統・副総統の直接選挙などの民主化を推進。中台関係では「二国論」を主張し,台湾海峡が緊張するなか,96年3月,初の総統直接選挙で第9代総統に当選,2000年5月任期を終え退任。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android