デジタル大辞泉
「陳水扁」の意味・読み・例文・類語
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陳 水扁
チン・スイヘン
Chen Shui-bian
- 職業・肩書
- 政治家 元台湾総統,元台湾民主進歩党主席
- 国籍
- 台湾
- 生年月日
- 1951年2月18日
- 出生地
- 台南
- 別名
- 愛称=阿扁(アーピエン)
- 学歴
- 台湾大学法律系卒
- 経歴
- 本省人の貧しい小作農家の生まれだが、小、中、高、大学をすべて首席で卒業。大学在学中に司法試験に合格、台湾最年少の弁護士となる。1979年民主化運動の幹部が一斉逮捕された美麗島事件で被告団の弁護に立ったことから政治に目覚め、’81年無党派として台北市議選に出馬、最高得票で当選。戒厳令下の市議時代に雑誌社の社長となり、マルクス主義に関する翻訳記事を掲載したとして実刑判決を受け、議員を辞職。’86年刑が確定し、8ケ月入獄。出獄後、’87年民主進歩党(民進党)に入党、党中央常務委員。’89年台湾立法委員(国会議員)選に出馬し、当選。国防政策の専門家として活躍。’94年12月初の直接選挙で台北市長に当選。同年米誌「タイム」で世界100人のニューリーダーの一人に選ばれた。’98年落選。’99年7月民進党の総統選公認候補となり、2000年3月国民党の連戦副総統、無所属の宋楚瑜元台湾省長を抑え、台湾総統に初当選、これにより国民党による長期単独政権が終焉。同年5月就任、国民党の唐飛国防部長(国防相)を行政院院長(首相)に起用し、党派などにこだわらない政権をスタートさせる。2002年7月民進党主席に就任。2004年3月総統選の遊説中に銃撃を受け負傷するが、連戦国民党主席を小差で破り再選、5月就任。同年12月立法院選挙で敗北した責任をとり、党主席を辞任。2006年11月妻の呉淑珍が総統府機密費流用の疑いで起訴され、総統退陣の要求が激化する。2007年再び党主席となるが、2008年1月立法院選挙で国民党に敗北し、党主席を辞任。同年5月総統を退任。同年11月総統府機密費の海外不正送金など4つの事件で計5容疑で最高検により逮捕される。2009年9月台北地裁で無期懲役、終身公民権剥奪、罰金2億台湾ドル(約5億6000万円)の判決を受け、控訴。9月と12月に収賄やマネーロンダリングなどの罪で追起訴。2010年11月最高裁は土地をめぐる収賄などについて懲役11年と懲役8年の判決を下し、12月高裁は刑期を懲役17年6月とする裁定を下した。同月服役開始。機密費不正流用は、2011年8月の差し戻し審判決で無罪。2012年9月入院。2013年6月自殺未遂。2015年1月治療のため仮釈放。台湾独立をうたった民進党綱領の起草メンバー。
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陳水扁
ちんすいへん / チェンシュイピェン
(1951― )
台湾の政治家。1951年2月18日、南部台南県の農家に生まれた「本省人」(台湾出身者)。父親は小学校卒で、母親は字が読めなかったといわれる。台湾大学在学中に弁護士資格を取る。1979年国民党が民主運動を大弾圧した「美麗島事件」では、逮捕された民主運動指導者たちの弁護団に参加した。1981年台北市議。1986年には主宰する民主派雑誌が誹謗(ひぼう)罪に問われ8か月入獄した。1989年立法委員(国会議員)。1994年台北初の民選市長に当選したが、1998年の市長選では、国民党の馬英九候補に敗れる。
2000年3月の総統選に、台湾独立を党綱領に掲げる民主進歩党から出馬して当選、半世紀余りの国民党支配を終わらせた。就任は同年5月。2004年3月に行われた総統選でも「自主独立路線」を訴え、中国との協調路線を唱える連戦国民党主席を小差で破り再選を果たした。2008年1月立法院選挙敗北の責任をとり党主席を辞任、5月には総統を退任した。2008年11月総統府機密費の不正流用事件で逮捕、さらに12月収賄や資金洗浄などの罪で起訴された。2010年12月、収賄などについて懲役17年6か月の裁定を受けた。
[野口賢志]
『丸山勝著『陳水扁の時代―台湾・民進党、誕生から政権獲得まで』(2000・藤原書店)』▽『陳水扁著、及川朋子・山口雪菜・永井江理子・本間美穂・松本さち子訳『台湾之子』(2000・毎日新聞社)』
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陳水扁【ちんすいへん】
台湾の政治家。台南市生れ。台湾大学法学部卒業後,弁護士として政治犯の弁護活動に従事。台北市の市会議員,民進党中央常務委員などをへて,1994年台北市長。1998年市長選では国民党候補に敗れたが,2000年3月の総統選では野党の民進党候補として当選。同年5月,李登輝の後任として第10代総統に就任,半世紀にわたる国民党政権からの交代が実現した。対中関係では,台湾の〈主権〉は主張しつつも,〈民主と対等の原則〉による〈未来の一つの中国〉を唱えている。2004年3月の総統選では国民党の連戦候補に僅差で勝利したが,2008年3月の総統戦では後継候補の謝長廷が国民党の馬英九候補に敗れた。総統退任後民進党を離党したが,2008年11月資金洗浄疑惑と不正蓄財疑惑で逮捕された。→台湾
→関連項目中国国民党
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陳水扁
ちんすいへん
Chen Shui-bian
[生]1951.2.18. 台南
台湾の政治家,総統 (在任 2000~08) 。台湾大学法学部在学中に司法試験に合格し,台湾最年少の弁護士となる。1979年民主化運動を弾圧した美麗島事件の弁護活動を機に政界入りした。1981年台北市議会議員に当選。1986年政治問題にからむ名誉毀損に問われて 8ヵ月間投獄された。民主進歩党 (民進党) 中央常務委員を経て 1989年立法委員 (国会議員に相当) 。1994~98年台北市長を務めたが,1998年の同市長選挙で中国国民党候補に敗れた。2000年3月の総統選挙に民進党から立候補して勝利し,半世紀に及んだ国民党一党独裁体制に終止符を打ち,史上初の政権交代を実現した。2002年民進党主席に就任。少数与党の政権運営を余儀なくされたが,独立志向を明確に示し,統一を迫る中国政府との関係が冷え込んだ。一方,経済面では中台の相互依存が深化した。2004年の総統選挙では「一辺一国 (中台はそれぞれ別の国) 」を訴え再選を果たしたが,同 2004年の立法委員選挙では対中関係改善を訴えた野党連合に敗北,責任をとって党主席を辞任した。
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陳水扁
中華民国(台湾)の政治家。1950年10月12日、台湾生まれ。70年、台湾大学法学部にトップの成績で入学。大学3年時の73年には、司法試験に最高得点で合格し、翌年、首席で大学を卒業した。81年、台北市の市議会議員に当選。87年、前年に結成された民主進歩党に入党し、89年には民進党議員団幹事長となった。94年、台北市長に当選。2000年5月20日、中華民国の第10代総統に就任した。2期にわたり台湾の本土化運動を推進する立場で活躍したが、多数のスキャンダルや事件が明るみになり支持率が低下、08年5月20日に総統を退任した。同年11月に逮捕・起訴され、11年には収賄事件で懲役11年、文書偽造で懲役1年8カ月などの判決が下された。13年6月3日、刑務所内でタオルを用い自殺を図ったが未遂に終わった。
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陳水扁(ちんすいへん)
Chen Shuibian/Chen Shui-pian
1951~
台湾の政治家。中華民国の第10代総統(在任2000~)。台南出身。台湾大学法学部を卒業後,弁護士資格を取得。高雄事件関係者の裁判弁護で活躍,政界に転身,81年台北市議に当選。台湾政治の民主化を主張して,民進党の結成に尽力,結党後は党内中間派に属す。94年台北市長に当選,台湾本位の政策を実施し,市政改革を断行。98年市長選に落選。民進党の総統候補として台湾の主体性を重視し,国民党長期政権を批判,政権交替の必要性を訴えて,2000年3月当選。5月就任。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報