中村町(読み)なかむらまち

日本歴史地名大系 「中村町」の解説

中村町
なかむらまち

[現在地名]中村市ほん町二―五丁目・きよう町一―五丁目・しん町一―三丁目・大橋通おおはしどおり一―二丁目・東下ひがししも町・弥生やよい町など

四万十しまんと川の左岸、標高四―九メートルの沖積低地に形成された町で、北方から東方にかけてうしろ川が流れ、西は為松ためまつ(古城山)、南は羽生はぶ山によって限られる。応仁二年(一四六八)幡多はた庄の領主一条教房がこの地に下向、居館を構えて町づくりに当たったのに始まる。町の南部を東から中村街道が、西から宿毛すくも街道が通じ、町を北へ抜けて後川を渡って後川沿いに上山かみやま郷に至る道が通じる。

〔一条氏時代〕

一条氏時代の景観が具体的に知られる資料はない。同時代を描いたものといわれる絵図の写が伝わるが、江戸時代製作の考証絵図と考えられており、信頼性に欠ける。しかし天正一七年(一五八九)の中村郷地検帳から当時の様相をある程度復元することが可能である。同地検帳によれば町形成の中核となった一条氏の土居(居館)は現在一条いちじよう神社のある愛宕あたご山西麓にあり、おもにその北に広がっていた街衢は「市屋敷」とよばれ、土塁で囲まれていたと考えられる。「市屋敷」内の町名にはたて町東町・立町西町、しん町北町・新町南町、かみ町北町・上町南町があり、検地面積は計三町五反余、うち田畠は一反余、残りは全部屋敷地で検地筆数九五のうち九一を占めている。

立町は土居北方の南北の町筋で、その延長は約三二〇メートルほど、新町は立町の南部でこれに直交する町筋で、延長は約二八〇メートルほどと考えられる。立町は江戸時代の本町通の南半にあたり、東側が立町東町、西側が立町西町、新町の北側が新町北町、南側が新町南町であった。立町の北端から西へ向かって派出していたのが上町で、南北に分れていた。このほか通りの名として新町に「奥少路」「米津少路」がみえる。以上の土居北方が中村町の中心であるが、土居西南の「下町」「築地口」にも町家地があった。下町は現大橋通二丁目の北側辺りにあったとみられる南北の町筋だが、屋敷は通りの西側だけにある。四万十川の港津・渡船場に続くところなので、一条氏時代には相当賑ったと推測される。築地口は現大橋通一―二丁目・弥生町一帯をよんだとみられ、明治九年(一八七六)の中村測量図(中村市立図書館蔵)では、現大橋通一丁目にあたる地域に「築地」と記されている。

〔江戸時代〕

当初の様子はわからないが、土佐西部最大の町として機能していたと推測され、中村藩成立以後はいっそう発展した。中村藩時代を描いた中村三万石御代之図によると、為松山の東、現丸の内まるのうちに中村山内氏の御屋敷があり、現在のさくら町・愛宕町小姓こしよう町・上小姓かみこしよう町・山手通やまてどおりおよび一条通いちじようどおり一―二丁目一帯は武家屋敷が建ち並んでいる(桜町・愛宕町の名称は同図に所見)

中村町
なかむらまち

[現在地名]中町中村町

杉原すぎはら川中流域西岸に位置する。中世には安田やすだ庄に含まれ、中村郷とよばれた。姫路から丹波への街道があり、奥中おくなか村・茂利しげり村を分けて町屋を形成したという(元禄四年「言上書」奥中区有文書)。慶長国絵図に中村町と記載される。慶長一九年(一六一四)検地帳(中村区有文書)によると田方二七二石余・反別一四町八反余、畑方一九石余・反別二町一反余。正保郷帳では田方二二八石余・畑方一五石余、山役・鉄砲役があり、幕府領。幕末も同領(旧高旧領取調帳)。正徳四年(一七一四)の村明細帳(中村区有文書)では高三二〇石余・反別二一町一反余、酒造米高九〇石、威鉄砲一、家数八一(本百姓六六・水呑一五)・人数四〇〇、牛四一、材木売買二・商人四。

中村町
なかむらまち

[現在地名]厳原町中村

天道茂てんどうしげ町の西に位置する。清水しみず山の東麓に開けた平地で、ほん(市ノ川)の屈曲で北は宮谷みやだに町、東は天道茂町と境を接し、南は八幡宮の前で今屋敷いまやしき町と接する。国府を五つの里に分けていた時代以来の地名で、中村を府城とした応仁二年(一四六八)より大永六年(一五二六)まで対馬の政治的中心であった。近世の町割でも、中村町は府士の邸宅を構えたところが多く、万治三年(一六六〇)幹路の馬場ばば筋が開かれると西手に八幡宮・同宮司職藤中氏屋敷・太平たいへい寺、東手に俵氏・多田氏・幾度氏・雨森氏らの屋敷が並んだ。馬場筋ばばすじ通の東に中村通が造成され、さらに東の笠淵かさぶちの通りに町人の住居や店舗が並ぶ。

中村町
なかむらまち

[現在地名]荒川区南千住みなみせんじゆ二丁目・同四―五丁目・同七丁目

小塚原こつかつぱら町の東方、下谷から日光道中千住宿へ向かう道(下谷通)の東にある。町域は小塚原町と錯綜し判別しがたい(風土記稿)。田園簿に中村とみえ、田一〇二石余・畑九石余、幕府領。寛文元年(一六六一)小塚原町とともに千住宿の加宿に組入れられ、千住下宿と俗称された(新修荒川区史)。これに伴い豊島郡峡田はけた領から淵江ふちえ領に所属替えとなった(風土記稿)

中村町
なかむらちよう

[現在地名]東山区本町十六丁目

三聖寺前さんしようじまえ(現本町十五丁目)の南、本町ほんまち(伏見街道)五条より一六町目に位置(明治二年に本町十六丁目と改称)

寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に「中村町」とみえ、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(荻野家文書)には、「一、弐拾軒 東福寺門前中村町」とある。ちなみに一之橋いちのはし(現本町十一丁目)より三聖寺前町(現本町十五丁目)に至る諸町はいずれも家数が一〇軒代である。更に当町以南の数町は一町で三〇―四〇軒の家数があり、東福寺門前の中心地がこの辺りより始まることをうかがわせる。

中村町
なかむらちよう

上京区下立売通日暮西入

東西に通る下立売しもたちうり通を挟む両側町。町の東側は日暮ひぐらし通、西側は智恵光院ちえこういん通。平安京大内裏の「左兵衛府」から「内豎所」にかけての跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世の聚楽第じゆらくだい造営時に中村式部少輔の邸宅があり、町名はこれによるという(坊目誌)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「中村丁」とみえ、町屋は下立売通の北側に記され、通りの南側は京都所司代板倉周防守の下屋敷。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中村町の言及

【千住】より

…荒川(隅田川)曲流部沿岸(現,東京都足立区南部,荒川区東部)に位置する低地部の地名。古くは千寿とも表記した。その由来には,荒川から拾得された千手観音像にちなむとの説(《新編武蔵風土記稿》)などがある。史料上の初見は1279年(弘安2)。鎌倉初期以降,奥州方面への運輸交通の要地として荒川北岸に発達し,武蔵国足立郡に属して一村を成していたと推定される。戦国期に後北条氏の支配下に入り,その家臣で江戸衆の千葉氏の所領となる。…

※「中村町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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