愛宕町(読み)あたごまち

日本歴史地名大系 「愛宕町」の解説

愛宕町
あたごまち

[現在地名]甲府市愛宕町・北口きたぐち三丁目・宮前町みやまえちよう中央ちゆうおう二―三丁目

甲府城の北東にあたり、愛宕山西斜面の裾の南北通りを主とした町人地で、上府中二六町の一町。西は南流するふじ川を隔てて武家地納戸なんど小路、南は藤川に架かる橋をもって下府中のさかい町に接する。境町から当町へ上りの坂を愛宕町の坂とよんだ(裏見寒話)。慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)に愛宕町とみえる。町名は愛宕山裾に愛宕権現が鎮座することにちなむ(裏見寒話)。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(県立図書館蔵)によれば東側二一六間半・西側一八三間、北角から西の新紺屋しんこんや町境までの東西の通りを横町とよび南側三九間・北側四二間。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]富山市愛宕町一―二丁目・芝園町しばぞのちよう二丁目

手伝てつたい町の西、北陸街道(巡見使道)に沿って東西に延びる。船橋向のうち。婦負ねい愛宕村の一部が城下の拡大によって城下に組入れられて成立し、町方と村方は錯綜していた。安永八年(一七七九)の書上(「町方旧記抜書」前田家文書)に郡地ありと注記して町名がみえ、五丁目までとする。天保二年(一八三一)の大火である浜田焼けの折の町絵図(県立図書館蔵)では、愛宕町と愛宕村町とに分けて記載される。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]上野市愛宕町

鉄砲てつぽう町の東、日南ひなた町の西にあり、本町ほんまち札之辻ふだのつじより三八九間で愛宕町土橋に達する(統集懐録)。土橋の下を流れるみぞ川はかつてはいけ町のかご池と木興きこ池を結ぶ川で、この溝川がほぼ城下町の南限になる。したがって愛宕神社の半ばは久米くめ村領であった。その社殿は東を向き、東に馬場道があるので、北の土橋からの参詣道は横道であった。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]飯山市大字飯山

さかな町西端より直角に北行する谷筋道通りの町で、南は奈良沢ならざわ村、北は伊勢いせ(神明町)に続く。東は侍屋敷のゆみ町、西は山地で麓に「城下囲い」の寺院が並ぶ。

城下町としてはかん町・した町・肴町の三町より後の成立であるが、往還筋にあたるため古くから民家が点在していたものと推測される。元禄一一年(一六九八)の飯山城下町屋鋪検地帳(深堀竜吉氏蔵)に町名初見、ほとんどの家は屋号をもたない。町名は町の南端肴町境にある愛宕大権現あたごだいごんげんによる。町の長さ三町五間六寸。西側には各寺大門や寺院店が多い。

大権現別当寺で、真言宗豊山派大和長谷寺末大輪だいりん院琉璃光山東光とうこう寺は、慶長年間(一五九六―一六一五)飯山城主関長門守一政が創立、祈願所としたと伝える。


愛宕町
あたごちよう

[現在地名]函館市船見町ふなみちよう

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町で(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)花谷はなや町の通りの南東を並行して走る愛宕坂(現在の東坂に相当)の通りの一帯を町域とした(明治六年函館旧市街図)。愛宕坂の名は、この坂を上った丘(近世には函館山とよばれていた)に勧請した愛宕明神に由来し、近世末期には坂の東側に出羽庄内藩と会津藩が留守居所を置いていた(万延元年箱館全図)


愛宕町
あたごまち

[現在地名]会津若松市宮町みやまち行仁町ぎようにんまち

屋敷やしき町の北に並び、長さ一町三九間余・幅三間余、家数三三(新編会津風土記)。この町は東方慶山けいざん村の愛宕山に通ずる通りで、愛宕神社の別当金蔵こんぞう院が代々この町に居住していたので、この名がついた。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]松阪市愛宕町・愛宕町一―四丁目

伊勢参宮街道に沿う。この街道の最も山田(現伊勢市)寄りの町が垣鼻かいばなで当町はこれに次ぐ。続く平生ひらお町との境には愛宕川が流れている。「権輿雑集」に「町廻の年貢地ニ無丁役、人家は湊町年寄支配、愛宕社号に寄て此称有」とみえ、町役の賦課されない町廻地であってみなと町年寄の支配を受けていた。「宝暦咄し」に「あたこ町に升屋・桑名屋と言ふ遊所在」とあるように遊郭の集まる所でもあった。「垣鼻ニ蛍茶屋とて大キニ時行」ともみえ、伊勢参宮街道沿いに松坂町中央部を離れ、愛宕川を越えると、当町および垣鼻付近に遊所が集中していた。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]笠間市笠間

城下の北部、東は愛宕山の台地で、南はおお町に続く。水戸から笠間城下への入口にあたり、上の木戸から下の木戸まで一町四一間。道の両側に町家が立並び、大町との境には土塁と町番所があった(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)。嘉禎二年(一二三六)笠間時朝が建立した愛宕山威徳院勝軍しようぐん寺の門前町として形成された。宝永二年(一七〇五)の笠間町町方軒別改帳(笠間稲荷神社蔵)によれば、屋敷数四〇(一軒口五、半軒半口二、半軒口三二、寺屋敷一)・人数一八九、馬五。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]大館市愛宕町

城下西部に位置し、大館所預の家士が居住する武家町。愛宕神社があるのでその名がある。町・よこ町の中間に位置し、北は川原かわら町。愛宕社は貞享二年(一六八五)の建立という(大館旧記)


愛宕町
あたごまち

[現在地名]松前郡松前町字愛宕など

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。博知石ばくちいし町の北側にある台地上の町。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」に町名がみえる。文化六年(一八〇九)には博知石町と合せて家数二二〇・人数七一二(「村鑑下組帳」松前町蔵)松浦武四郎は「藩士多く家居す。此町二筋ニなり、其上ニは市中の木蔵多し。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]宇和島市愛宕町あたごちよう一丁目

元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図には山伏やまぶし町とある。この町には中士・下士層の屋敷が密集し、近くに一宮いつく神社やその神主宅、愛宕山延命えんめい寺があった。延命寺には修験者がいたので山伏町といった。

延命寺は、元和元年(一六一五)伊達秀宗が入部した時、勝軍地蔵堂を建てて地蔵院延命寺と称し祈願所とした。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]能代市檜山字霧山下きりやました

かみ町南端の木戸の外側に、羽州街道に沿って発達した。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」によれば、延宝七年(一六七九)の成立、家数一六軒。天保二年(一八三一)檜山絵図(秋田県庁蔵)によれば、町の長さは四〇九間。上町の木戸を出てすぐ東へ曲がって檜山城跡へ登る坂道がある。


愛宕町
あたごまち

[現在地名]飯田市愛宕町

城域と町家を画して南北に走る堀端の南部に位置する。飯田の段丘からまつ川の氾濫原に下る急坂と氾濫原に町が形成されている。

町並の西南の段丘の突端は飯坂いいざかともいわれ、中世に坂西氏が飯坂城を築いた地でもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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