戴季陶(読み)タイキトウ

デジタル大辞泉 「戴季陶」の意味・読み・例文・類語

たい‐きとう〔‐キタウ〕【戴季陶】

[1891~1949]中国政治家四川省の生まれ。名は伝賢。号は天仇。日本に留学後、革命運動に入り、孫文死後国民党右派の領袖国民政府委員・考試院長を歴任。著「日本論」など。タイ=チータオ。

タイ‐チータオ【戴季陶】

たいきとう(戴季陶)

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精選版 日本国語大辞典 「戴季陶」の意味・読み・例文・類語

たい‐きとう ‥キタウ【戴季陶】

中国の政治家。四川省の生まれ。名は伝賢。季陶は字(あざな)。号は天仇。日本に留学し、帰国後は革命運動に入り、孫文の秘書を務めた。孫文の死後、国民党右派の指導者として活躍著書に「孫文主義の哲学的基礎」「日本論」など。タイ=チータオ。(一八九一‐一九四九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「戴季陶」の意味・わかりやすい解説

戴季陶
たいきとう / タイチータオ
(1891―1949)

中国の政治家、ジャーナリスト。国民党右派の論客。名は伝賢。季陶は字(あざな)。四川(しせん)省漢州の生まれ。1905年(明治38)日本に留学し、日本大学法科に学ぶ。1909年帰国して『上海(シャンハイ)日報』『天鐸報(てんたくほう)』を編集し、天仇(てんきゅう)の号で論文を書く。1911年筆禍事件でペナンに逃れ、同地で中国同盟会に入会し、『光華報』を編集、革命を主張した。10月の武昌蜂起(ぶしょうほうき)後、上海に戻り『民権報』を創刊。1912年(大正1)孫文(そんぶん)の秘書となり、彼に従って来日し、桂太郎(かつらたろう)との会談の通訳を務めた。1918年、労働問題、社会問題に関心をもって研究を始め、1919年、朱執信(しゅしつしん)(1885―1920)、廖仲愷(りょうちゅうがい)、胡漢民らとともに孫文を助けて『建設雑誌』を創刊した。1924年、国共合作の国民党第1回全国代表大会で中央執行委員、宣伝部長に選出され、黄埔(こうほ)軍官学校政治部主任も務めた。1925年孫文が死ぬと、孫文の思想を伝統的儒教思想の継承とした『孫文主義の哲学的基礎』などを著し、国民党の容共政策反対、国民党右派の理論的指導者となり、西山会議にかかわった。1928年10月国民政府委員、考試院長となる。以後、官吏登用制度整備に尽力した。1949年2月広州で死去。自殺との説もある。

[阿川修三]

『戴季陶著、市川宏訳『日本論』(1972・社会思想社)』『嵯峨隆著『戴季陶の対日観と中国革命』(2003・東方書店)』『張玉萍著『戴季陶と近代日本』(2011・法政大学出版局)』

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改訂新版 世界大百科事典 「戴季陶」の意味・わかりやすい解説

戴季陶 (たいきとう)
Dài Jì táo
生没年:1890-1949

中国の政治家。四川省出身。季陶は字,名は伝賢,筆名によって戴天仇でも知られる。1905年日本に留学し,日本大学卒業。11年中国同盟会に加入,12年孫文の秘書となり,孫文の日本亡命に常に同行して通訳をつとめた。24年国民党中央執行委員,宣伝部長。孫文死後国民党右派の反共理論家となり,孫文思想を儒教の継承と解釈し,共産主義から峻別した。日本の社会,文化に精通した彼は,田中義一内閣の政策批判を最大の眼目として,《日本論》(1928)を著したが,戦前戦後,数回翻訳されたにもかかわらず,顧みられることが少なかった。
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百科事典マイペディア 「戴季陶」の意味・わかりやすい解説

戴季陶【たいきとう】

中国,国民党の政治家,孫文主義の理論的指導者。筆名は天仇。四川省の人。清末,日本に留学し,孫文の側近として中華革命党結成などに活躍。のち右派の西山派の中心として蒋介石の思想的支柱となる。1928年初代考試院院長。1949年国民党に絶望し自殺。著書は《孫文主義之哲学的基礎》のほか,《日本論》(1929年)など。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「戴季陶」の解説

戴季陶(たいきとう)
Dai Jitao

1891~1949

中国国民党右派の理論的指導者。名は伝賢(でんけん)。ペンネームは天仇(てんきゅう)。浙江(せっこう)省呉興県の人。早くより孫文をたすけたが,『孫文主義の哲学的基礎』を著して国共合作に反対した。1928年以後,考試院院長の職にあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戴季陶」の解説

戴季陶 たい-きとう

1891-1949 中国の政治家,ジャーナリスト。
光緒17年11月26日生まれ。明治38年日本に留学。1911年中国革命同盟会に入会し,翌年孫文の秘書となり,日本亡命の際同行。孫文の死後国民党の容共政策に反対して国民党右派の理論的指導者となった。1949年2月12日死去。59歳。四川省出身。日大卒。名は伝賢。筆名は天仇。著作に「孫文主義の哲学的基礎」「日本論」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「戴季陶」の意味・わかりやすい解説

戴季陶
たいきとう

戴伝賢」のページをご覧ください。

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