日本大百科全書(ニッポニカ) 「廖仲愷」の意味・わかりやすい解説
廖仲愷
りょうちゅうがい / リヤオチョンカイ
(1876―1925)
中国の国民党左派の政治家。清(しん)末に日本に留学して早稲田(わせだ)大学に入学、来日した孫文(そんぶん)を知り、東京で中国同盟会の結成に参加。辛亥(しんがい)革命後、広東(カントン)都督府参議に任じたが、第二革命で日本に亡命。1920年帰国して孫文の広東軍政府に参加、広東省長などを歴任し、1923年、日本でソ連のヨッフェと会見、国共合作を推進、1924年の国民党一全大会で中央執行委員、1925年にはその農民部長を兼任したが、同年、蒋介石(しょうかいせき)ら右派によって暗殺された。夫人は中華人民共和国の全国人民代表大会代表、人民政治協商会議副主席、婦女連合会名誉主席として重きをなした何香凝(かこうぎょう)。子息の廖承志(りょうしょうし)は全国人民代表大会常務委員会副委員長として、対日関係の中心的存在であった。
[安藤彦太郎]