中国の政治家、ジャーナリスト。国民党右派の論客。名は伝賢。季陶は字(あざな)。四川(しせん)省漢州の生まれ。1905年(明治38)日本に留学し、日本大学法科に学ぶ。1909年帰国して『上海(シャンハイ)日報』『天鐸報(てんたくほう)』を編集し、天仇(てんきゅう)の号で論文を書く。1911年筆禍事件でペナンに逃れ、同地で中国同盟会に入会し、『光華報』を編集、革命を主張した。10月の武昌蜂起(ぶしょうほうき)後、上海に戻り『民権報』を創刊。1912年(大正1)孫文(そんぶん)の秘書となり、彼に従って来日し、桂太郎(かつらたろう)との会談の通訳を務めた。1918年、労働問題、社会問題に関心をもって研究を始め、1919年、朱執信(しゅしつしん)(1885―1920)、廖仲愷(りょうちゅうがい)、胡漢民らとともに孫文を助けて『建設雑誌』を創刊した。1924年、国共合作の国民党第1回全国代表大会で中央執行委員、宣伝部長に選出され、黄埔(こうほ)軍官学校政治部主任も務めた。1925年孫文が死ぬと、孫文の思想を伝統的儒教思想の継承とした『孫文主義の哲学的基礎』などを著し、国民党の容共政策に反対、国民党右派の理論的指導者となり、西山会議にかかわった。1928年10月国民政府委員、考試院長となる。以後、官吏登用制度整備に尽力した。1949年2月広州で死去。自殺との説もある。
[阿川修三]
『戴季陶著、市川宏訳『日本論』(1972・社会思想社)』▽『嵯峨隆著『戴季陶の対日観と中国革命』(2003・東方書店)』▽『張玉萍著『戴季陶と近代日本』(2011・法政大学出版局)』
中国の政治家。四川省出身。季陶は字,名は伝賢,筆名によって戴天仇でも知られる。1905年日本に留学し,日本大学卒業。11年中国同盟会に加入,12年孫文の秘書となり,孫文の日本亡命に常に同行して通訳をつとめた。24年国民党中央執行委員,宣伝部長。孫文死後国民党右派の反共理論家となり,孫文思想を儒教の継承と解釈し,共産主義から峻別した。日本の社会,文化に精通した彼は,田中義一内閣の政策批判を最大の眼目として,《日本論》(1928)を著したが,戦前戦後,数回翻訳されたにもかかわらず,顧みられることが少なかった。
執筆者:藤井 昇三
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1891~1949
中国国民党右派の理論的指導者。名は伝賢(でんけん)。ペンネームは天仇(てんきゅう)。浙江(せっこう)省呉興県の人。早くより孫文をたすけたが,『孫文主義の哲学的基礎』を著して国共合作に反対した。1928年以後,考試院院長の職にあった。
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