村田 英雄(読み)ムラタ ヒデオ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「村田 英雄」の解説

村田 英雄
ムラタ ヒデオ


職業
歌手 俳優

本名
梶山 勇

別名
前名=京山 茶目丸,酒井 雲坊

生年月日
昭和4年 1月17日

出生地
福岡県

出身地
佐賀県 東松浦郡相知町(唐津市)

経歴
父は浪曲師の広沢仙遊で、母は曲師。浪曲師の浪花綱若夫妻に育てられ、4歳で京山茶目丸の名で「中山安兵衛」を演じて初舞台を踏む。7歳で“文芸浪曲”で知られた酒井雲に弟子入りし、13歳で真打ちとなり、酒井雲坊を名乗り、“天才少年浪曲師”として九州を中心に巡業。昭和24年新栄プロダクション社長となる西川幸男を頼り上京、以来、二人三脚で芸能界を歩く。27年浪曲新人最優秀賞を受賞して若手浪曲家ナンバーワンと認められる。28年村田英雄改名。29年NHKとの専属契約を蹴り、文化放送での毎日15分の連続歌謡浪曲に出演する契約を結ぶ。33年同番組を耳にした作曲家・古賀政男から直々にスカウトされ、コロムビアから「無法松の一生」で歌手デビュー。34年「人生劇場」がヒットしたのに続き、36年「王将」が戦後初のミリオンセラーとなる150万枚を売り上げ、同年日本レコード大賞特別賞を受賞。先にデビューしていた三橋美智也春日八郎、同じ浪曲出身のライバル・三波春夫らとともに昭和30年代の歌謡界を牽引した。NHK「紅白歌合戦」には27回出場。他のヒット曲に「柔道一代」「姿三四郎」「花と竜」「夫婦春秋」「人生峠」「なみだ坂」「男の一生」などがある。傍ら、38年鶴田浩二と意気投合して映画界に誘われ、東映任侠映画で鶴田や高倉健らと共演北島三郎と組んだ〈兄弟仁義〉〈男の勝負〉シリーズもあったが、歌手と俳優の二足のわらじに悩んでいる際に、2代目中村鴈治郎から「歌の仕事がある身でよくこうして映画に出ていられるなあ」と言われたことがきっかけで、俳優業からきっぱり足を洗った。平成8年持病の糖尿病からくる合併症のため右足膝下12センチを切断。同年三橋の追悼公演には義足を付けて出席し、奇跡の復活を遂げた。9年半生記「命あってこそ」を出版。糖尿病患者のための月刊誌「さかえ」に掲載された闘病記は大きな反響を呼んだ。以後全国を回り、自らの体験を糖尿病講座などで講演。10年シングル「忍耐」をリリース。12年1月左足も膝下から切断したが、最後まで現役を貫いた。

受賞
浪曲新人最優秀賞〔昭和27年〕,桃中軒雲右衛門賞(NHKの新人賞・第1回)〔昭和28年〕,日本レコード大賞特別賞〔昭和36年〕「王将」,日本レコード大賞20周年記念顕彰(第20回)〔昭和53年〕,日本演歌大賞(演歌功労賞 第10回)〔昭和59年〕,フェアヘーブン市名誉市民〔平成1年〕,ニューベッドフォード市名誉市民〔平成1年〕,日本レコード大賞特別功労賞(第44回)〔平成14年〕

没年月日
平成14年 6月13日 (2002年)

家族
実父=広沢 仙遊(浪曲師),養父=浪花 綱若(浪曲師)

伝記
男の応援歌―村田英雄聞書いのちかがやく瞬間(とき)―著名人・感動の蘇生記歌謡界銘々伝俺は村田だ!!―エッセイ&対談集アイドル40年〈PART5 昭和40〜50年代編〉 安武 秀明 著後藤 寿一 編著南原 四郎 著村田 英雄 著(発行元 西日本新聞社コスミックインターナショナルパロル舎双葉社近代映画社 ’00’97’94’93’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「村田 英雄」の解説

村田 英雄
ムラタ ヒデオ

昭和・平成期の歌手



生年
昭和4(1929)年1月17日

没年
平成14(2002)年6月13日

出生地
佐賀県東松浦郡相知町

本名
梶山 勇

主な受賞名〔年〕
浪曲新人最優秀賞〔昭和27年〕,桃中軒雲右衛門賞(NHKの新人賞・第1回)〔昭和28年〕,日本レコード大賞特別賞〔昭和36年〕「王将」,日本レコード大賞20周年記念顕彰(第20回)〔昭和53年〕,日本演歌大賞(演歌功労賞 第10回)〔昭和59年〕,フェアヘーブン市名誉市民〔平成1年〕,ニューベッドフォード市名誉市民〔平成1年〕,日本レコード大賞特別功労賞(第44回)〔平成14年〕

経歴
父は浪曲師、母は曲師。酒井雲に弟子入りし、5歳で初舞台を踏む。13歳で真打ちとなり、酒井雲坊を名乗り、“天才少年浪曲師”として九州を中心に巡業。昭和26年上京、27年浪曲新人最優秀賞を受賞して若手浪曲家ナンバーワンと認められる。その後、三橋美智也ショーを見たことがきっかけで、浪曲に歌謡ショーを取り入れ、32年浅草国際劇場の新作競演浪曲大会で、浪曲の伴奏にギター、アコーディオンを使った独創的な歌謡浪曲を発表。古賀政男に見いだされ、33年村田英雄を名乗って「無法松の一生」で歌謡界にデビュー。翌34年「人生劇場」がヒットしたのに続き、36年「王将」が戦後初のミリオンセラーとなる150万枚を売り上げ、同年日本レコード大賞特別賞を受賞。先にデビューしていた三橋、春日八郎、同じ浪曲出身のライバル三波春夫らとともに30年代の歌謡界を牽引した。NHK「紅白歌合戦」に27回出場。他に「姿三四郎」「皆の衆」「夫婦春秋」「祝い節」「人生峠」「なみだ坂」「男の一生」等がある。また「兄弟仁義」シリーズ、「男の勝負」シリーズなど映画にも多数出演。平成8年持病の糖尿病からくる合併症のため右足膝下12センチを切断。同年三橋の追悼公演には義足を付けて出席し、奇跡の復活を遂げた。9年半生記「命あってこそ」を出版。糖尿病患者のための月刊誌「さかえ」に掲載された闘病記は大きな反響を呼んだ。以後全国を回り、自らの体験を糖尿病講座などで講演。10年シングル「忍耐」をリリース。12年1月左足も膝下から切断したが、回復し、最後まで現役を貫いた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「村田 英雄」の解説

村田 英雄 (むらた ひでお)

生年月日:1929年1月17日
昭和時代;平成時代の歌手
2002年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報