藤原氏宗(読み)ふじわらのうじむね

改訂新版 世界大百科事典 「藤原氏宗」の意味・わかりやすい解説

藤原氏宗 (ふじわらのうじむね)
生没年:810-872(弘仁1-貞観14)

平安初期の官人。生年を795年(延暦14)とする説もある。藤原葛野麻呂(かどのまろ)の子で母は和気清麻呂の娘。蔵人を経て838年(承和5)従五位下となり,右少弁陸奥守などを経て848年(嘉祥1)春宮亮,翌々年文徳天皇即位にともない蔵人頭,翌851年(仁寿1)参議となる。のち検非違使(けびいし)別当,左大弁を歴任,859年(貞観1)従三位,左右大将を経て870年には太政大臣藤原良房のもとで右大臣となり,良房に先だつこと半年で没した。この間,貞観格式編纂に携わった。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原氏宗」の解説

藤原氏宗

没年:貞観14.2.7(872.3.19)
生年:生年不詳
平安前期の公卿。葛野麻呂と和気清麻呂の娘の子。天長9(832)年に上総大掾。以後美濃守,陸奥守など多数の官を歴任,清和朝に入り急速に昇進し中納言,大納言を経て貞観12(870)年右大臣。この昇進には貞観1年の藤原淑子(基経の異母妹)との結婚が無関係ではなかろう。官歴の多さは他に類をみないが,『貞観格』『貞観式』の編纂にかかわったほかは,これといった事績は伝わらない。63歳(66歳とも)で没し,当日正二位を追贈されたが,子供らは遺命により受け取らなかったという。晩年を過ごした東山の白河邸は,いまの大豊神社(京都市左京区鹿ケ谷)の地にあったといい,没後妻の発願で寺(円成寺)に改められた。

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原氏宗」の解説

藤原氏宗 ふじわらの-うじむね

810-872 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
弘仁(こうにん)元年生まれ。北家藤原葛野麻呂(かどのまろ)の7男。母は和気清麻呂(わけの-きよまろ)の娘。仁寿(にんじゅ)元年(851)参議,貞観(じょうがん)12年右大臣。この間左右近衛(このえ)大将,東宮傅(ふ)などを兼任,正三位にいたる。「貞観格(きゃく)」「貞観式」を撰進した。貞観14年2月7日死去。63歳。贈正二位。

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