改訂新版 世界大百科事典 「藤原葛野麻呂」の意味・わかりやすい解説
藤原葛野麻呂 (ふじわらのかどのまろ)
生没年:755-818(天平勝宝7-弘仁9)
平安初期の官人。山背(山城)への遷都の中心人物の一人であった小黒麻呂の子で,母は山背の土豪秦島麻呂の娘であり,名前もその地名葛野郡に由来するものであろう。785年(延暦4)従五位下,春宮坊,弁官の職を経て,798年には右大弁,翌年大宰大弐となる。801年には遣唐大使となり,803年7月に最澄,空海らとともに入唐し,翌年6月に帰国し,その功により従三位となった。806年(大同1)参議,翌年観察使の設置とともに東海道観察使となったが,半年ほどで中納言,式部卿に遷任された。809年正三位となり,嵯峨天皇が即位し,高岳(たかおか)親王が皇太子となると,その皇太子傅となった。810年(弘仁1)薬子の変で高岳親王は廃太子となり,累は皇太子傅にも及ぶ状況にあったが免れた。のち民部卿となった。
執筆者:佐藤 宗諄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報