野田郷(読み)のだごう

日本歴史地名大系 「野田郷」の解説

野田郷
のだごう

鹿児島藩外城の一。出水郡の中央やや西寄りに位置し、西は阿久根郷、北は出水郷(飛地)、東は高尾野たかおの郷で、南の一部が薩摩郡とう郷に接し、また北の一部は海(八代海)に面していた。初めは出水郷の一〇ヵ外城のうちであったが、明暦三年(一六五七)に同郷より分れて一郷となった(出水記)。なお出水一〇ヵ外城の一つであった承応年間(一六五二―五五)から上名かんみよう下名しもみよう二村および江内えうち(現高尾野町)のうち荒崎あらさき地区を管轄していたが、一郷になってのちの寛文六年(一六六六)荒崎は出水郷内となって分離、以後は上名・下名の二村のみとなった(野田村郷土誌)中世には山門やまと院のうちで、野田村などともいった。弘長二年(一二六二)三月九日、平秀忠は山門別府べつぷ田畠を娘虎王に譲ったが(「平秀忠譲状案」旧記雑録)、その四至のうち東は「おほちさかりの溝くたり松もと田とのたのむらの道」であった。暦応四年(一三四一)三月二四日の高重茂奉書案(延時文書)や同五年三月五日の東郷重清請文(新田神社文書)にみえる野田又太郎、正平四年(一三四九)九月二〇日の某感状(伊集院氏系図)でその勤めを賞されている野田左衛門次郎、延徳三年(一四九一)二月二〇日の犬追物手組(旧記雑録)に喚次として名を連ねる野田源五郎らは野田を名字の地とする在地領主であろう。

野田郷
のたごう

和名抄」高山寺本は「能多」、東急本は「乃太」と訓ずる。現鯖江市西部の上野田かみのだ町・下野田町一帯に比定され、中世には野田本郷とみえる。

野田郷
のだごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、ノタであろう。

野田郷
のたごう

「和名抄」東急本は「乃多」と訓じ、大野郡に置く。天平神護二年(七六六)九月の田券(東南院文書)および同年一〇月二一日付越前国司解(同文書)に郷名がみえるが、比定地不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の野田郷の言及

【野田[町]】より

…南部は出水山地の一角を占め,町域の東縁を野田川および支流の御手洗(みたらい)川が北流し,流域西岸に広い沖積低地を形成して八代(やつしろ)海に注ぐ。鹿児島本線,国道3号線が通じ,JR野田郷(のだごう)駅を中心に市街地が発達する。中世は山門院(やまとのいん)野田郷に属する。…

※「野田郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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