改訂新版 世界大百科事典 「アジア主義」の意味・わかりやすい解説
アジア主義 (アジアしゅぎ)
敗戦までの近代日本に一貫して見られる対外態度の一傾向。さまざまな政治的立場と結びつき,かつ日本の国際的地位の変化につれてたえず具体的内容が変化しているので,きわめて複雑でとらえがたい。しかし,中国などアジア諸国と連帯して西洋列強の圧力に対抗し,その抑圧からアジアを解放しようといった主張を掲げつつ,意識的または無意識的に,列強のアジア侵出に先制して,もしくはそれにとって代わって,日本をアジアに侵出させる役割を果たした点に,最大の特徴がある。敗戦以前には一般に〈大亜細亜主義〉と称されたが,おそらくこれは大正半ば以後のことであろう。明治には当初から〈興亜〉といった主張があり,この立場をみずから〈亜細亜旨義〉と称した例(雑誌《亜細亜》1892年2月)がないわけではないが,アジア主義ないし類似の言葉が流通していた形跡はない。
アジア主義と膨張主義
アジア主義は圧倒的に優勢な欧米列強がアジアに侵出してくる状況のもとで,発生・展開する。開国前後のそれは漠然たる動向にすぎなかったが,弱小の日本の独立を防衛するために,中国や朝鮮と文字どおりの意味で連帯しようとしたものとみてよかろう。しかし,その後の変遷は,大筋としてみると,膨張主義と結びつくことによって,その主張と実際とが完全に乖離・対立するようになる過程にほかならない。この膨張主義はアジア主義と同時に,同じ課題をめぐって発生したもので,独立を守るには対外的膨張を図り,日本を列強化する以外にないとする傾向である。近代日本では開国の事情およびその置かれた国際的環境からして,国際社会は弱肉強食であり,日本のような小国は独立できないという見方,やや角度を変えていうと,世界はやがて列強とその植民地とに両極化するという国際像が深く浸透するため,終始この傾向が優勢を占める。日本が独立も不安定ななかで大陸侵出にのり出すのも,その戦争がたえず冒険的性格を強く帯びるのも,このためである。この立場では,地理的近さやそこへ列強が浸透してくることへの危惧のために,当初から朝鮮や中国は侵出の対象(正確には,日清戦争までの中国は朝鮮をめぐる競争の対象)である。したがって,アジア主義は発生的にはこれとは別個のものである。しかし,朝鮮や中国で近代化が進まず,欧米列強による分割の危険が高いという事情のもとで,1880年代に入ると民権派や大陸浪人などによってさまざまな朝鮮・中国改革論が現れてくる。これらの改革論は日本の指導という契機を含む以上,純粋に連帯の意識に発するものの場合でも,すでに膨張主義(日本の勢力浸透論)の要素をしのび込ませていたのである。
日清戦争による日本の大陸侵出をきっかけとして,皮肉にも列強とくにロシアの極東侵出が激化するが,戦後にはこれを阻止するためにアジア主義が強く出てくる。これは列強に対する日本の劣勢をアジアとの連帯によって克服しようとしたものと考えられるが,ここでは列強の侵出に対する中国・朝鮮との連帯とは,日本の指導,いな日本の力による朝鮮・中国の防衛を意味しており,連帯と侵略とが表裏の関係となっている(事実,日露戦争により日本は中国におけるロシアの権益の一部を当然のこととしてわが物とし,朝鮮を植民地化した)。こうしてアジア主義は膨張主義と結びつき,むしろ後者に吸収されていくが,この傾向は日露戦争後にはいっそう強まる。この時期になると,アジア主義は列強の新たな侵出を阻止するだけにとどまらず,すでに侵出している列強の勢力をアジアから駆逐しようという主張を展開しはじめる。しかし,第1次大戦中に北一輝や徳富蘇峰が説いた〈亜細亜(東亜)モンロー主義〉という言葉が端的に示すように,ここでは列強からの東亜解放の主張は,東亜における日本の覇権の要求であった。したがって,この前後より急速に高まる中国ナショナリズムの側が,アジア主義を中国侵略のイデオロギーと受け取ったのは,理由がないわけではない。満州事変は,世界が列強と植民地とに両極化するという国際像(第1次大戦までは事実の認識として一定の真実を含んでいたように思われる)に固執する日本膨張主義が,中国の国民的統一の進行に脅威を感じ,それを機に単に既存の権益を維持するだけにとどまらず,一挙に権益を拡大することによって,日本の列強としての地位を確保しようとした戦争である。アジア主義はこの戦争を擁護することによって,膨張主義に完全に従属し,アジア解放という主張の対立物となったことを明らかにした。その後,日華事変(日中戦争),〈大東亜戦争〉へと戦争が拡大するにつれて,アジア主義は国内にまんえんし,その立場から〈東亜新秩序〉〈東亜共同体〉〈大東亜共栄圏〉といった観念が打ち出されるが,これらは日本のアジア侵略の事実を隠ぺいするか,現に行われているアジア支配の方法をある程度合理化しようとするものにすぎなかった。
アジア主義と協調主義
アジア主義と対比すべきものは欧米列強との協調主義である。両者は近代日本が列強と鋭く対立しつつも,巨大な力の格差からして,それに対する従属性を免れえなかったという事情を条件として出現する。その場合,アジア主義が西洋の優越に反発し,アジア諸国との連帯によってそれに対抗しようとしたとすれば,協調主義は西洋優越の現実に意識的に照応し,一部の列強と提携することによって,他の一部の列強に対立しよう,少なくとも列強全体を敵にまわすのを避けようとしたのである。両者はある面では鋭く対立するのであり,前者は後者を事大ないし軟弱外交と攻撃し,後者は前者を無謀と批判した。にもかかわらず,両者は相互に補完し,ある場合には同一人物のうちに共存することによって,近代日本の対外的膨張を支えた。日露戦争の際には日清提携論と対英米協調主義が共働したが,アジア主義が前面に出ているかに見える〈大東亜戦争〉も,ドイツ,イタリアとの同盟なくしてはありえなかったのである。この二つの傾向のうち,対列強協調主義が経済界をも含めた支配層の中枢を主たる基盤としていたのに対して,アジア主義は政治的意味での中間層を主たる担い手としていたといってよかろう。したがって,国家の対外政策という面では,満州事変以前には協調主義のほうが全面に出ているかのようである。しかし,政府の指導者は黄禍論に象徴されるような欧米の疑惑を避けるために,アジア主義的な主張を公言するのをはばかったけれども,多くの場合,彼らも内心にはアジア主義と共通な西洋優越への反発をもっており,さまざまな仕方でアジア主義を利用したのである。
執筆者:植手 通有
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報