1958年2月1日,エジプト,シリア両国は合邦し,〈アラブ連合共和国〉を樹立した。アラビア語ではal-Jumuhurīya al-`Arabīya。時代史的には当時アラブ地域に高まっていた全アラブ統合主義の政治的表現と見ることができる。しかし現実の統合過程において,推進母体であるエジプトのナーセルとシリアのバース党は当初から異なった期待と戦略を抱いていた。バース党が統合過程を通してシリア内部での実質的支配権を握ろうとしたのに対し,ナーセルは合邦の条件として,〈一部のシリア人が望んでいるような緩い連邦制ではなく,高度に中央集権化された統合体〉を構想していた。そのため従来シリアにあった全政党は解散させられ,それに代わってエジプトの単一政党〈国民連合〉および行政・軍事機構の組織が植え付けられていった。翌59年7月国民連合地方委員会選挙が実施されると,シリア地区選出委員総数9445名中バース党系は250名(推定)となり,その勢力は凋落した。同年12月から翌年1月にかけてバース党系閣僚5名が集団辞任するに及んで,ナーセルの一枚岩的統治方式の失敗は明らかになってきた。
エジプト・シリア間の不和は間接的に国際関係上の要因によっても深められた。1958年7月以降イラク革命において社会主義的なカセム政権が成立すると,エジプト・イラク関係は急速に悪化した。これはアラブ地域における革新的ナショナリズム運動の指導権をめぐる争いであった。翌59年に入り,ナーセルはカセム政権孤立化を狙ってヨルダン,サウジアラビアとの外交関係を改善したばかりか,対米関係をも修復した。革命イラクとの統合を考慮していたバース党その他の全アラブ統合主義者たちにとって,このようなエジプトの外交政策転換は革命原則の放棄と映ったのである。
さらに経済的に見ると,1958年11月シリア地区へ導入された農地改革は,エジプトのそれよりいっそう徹底的に行われたため,大地主層の間に大きな不満を引き起こし,干ばつによる3年連続の不作がこれに拍車をかけた。また輸入・通貨・賃金面での規制強化,特に61年初めの厳しい為替管理の実施や,同年7月の国有化政策断行はシリア大資本家層に脅威を与えた。
こうして反エジプト意識が高まる中,61年9月28日シリア軍将校によるクーデタが勃発し,シリアはアラブ連合共和国から離脱し,両国の統合は終りを告げたのであった。統合の崩壊は当然全アラブ統合主義運動の後退を意味し,それをリードしてきたナーセル政権は正統性回復の必要に迫られた。統合崩壊直後からエジプトの内政・外交が急進化した理由の一端は,ここにあった。他方シリアでは,保守系を主流とする議会政治が一時復活し,統合段階での社会主義政策を撤回すると共に,対イラク関係を改善していった。
エジプトは合邦崩壊後も引き続き国名を〈アラブ連合共和国〉と称し,71年9月,現在の〈エジプト・アラブ共和国〉へ変更した。
執筆者:富田 広士
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1958年、エジプト、シリア両国が結成した連合共和国。1952年エジプト王制を倒し、翌1953年共和制を宣言したナセル(1956年に大統領に就任)は、アラブ統一を悲願としていたが、1958年2月、エジプトはシリアと合併しアラブ連合共和国を結成した。この合併は両国の主権を否定し、両国はエジプト州、シリア州となり、ナセルの一連の進歩的土地経済改革がシリア側にも適用されるという結束度の高い国家統合を目ざしていた。しかし、1961年9月のシリアにおけるクーデターで同国が脱退し、連合共和国は3年余りで幕を閉じた。しかし、その後もエジプトは、ナセル大統領の死後の1971年9月まで、アラブ連合共和国の名称を国名として使用した。
[勝俣 誠]
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1958~71
アラブ民族主義の高まりのなか,1958年エジプトとシリアが連合してできた国家。当初よりナセル率いるエジプト側の影響力が強く,内政・外交ともにシリア側には不満が大きかった。そのため61年シリアでクーデタが発生すると,シリアは連合共和国を離脱した。ただし,アラブ連合共和国の名前は71年エジプトが国名をエジプト・アラブ共和国と変えるまで続く。
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…ソ連の軍事援助は経済援助を5倍も上回る規模で行われ,特に1967年戦争敗北以降の軍再建に向けられた。 他方1955年バンドン会議出席後,ナーセルは,非同盟・積極的中立を唱えて新興独立諸国をリードし,また56年スエズ運河国有化,スエズ戦争(第2次中東戦争)を経て,58年シリアとの国家統合を行って〈アラブ連合共和国〉を樹立し,パン・アラブ主義外交を積極的に展開した(アラブ民族主義)。さらに61年シリアとの合邦が崩壊すると,イエメン内戦に軍事介入した。…
…40年代後半から50年代にかけて社会の流動化が進行して新しい社会グループが成長し,革新的政党であるバース党や共産党が大きく台頭してきた。54年の軍事政権崩壊から58年のアラブ連合共和国結成までのシリアの政治は,1955年のバグダード条約,56年のイラクの陰謀,57年のアメリカの陰謀など外的要因によって大きく左右された。そして,人民党や国民党などの帝国主義勢力と連携する国内反動主義者や,これを支持するムスリム同胞団やPPSの保守派グループに対し,知識人,学生,労働者,農民を支持層とする共産党とバース党,およびこれに連携する民族主義者(国民党の左派)とアズムal‐‘Azm(1900‐65)を中心とする民主ブロックが結束して対抗した。…
※「アラブ連合共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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