基本情報
正式名称=リビア・アラブ社会主義人民共和国Jamāhīrīya al-`Arabīya al-Lībiyā al-Ishtirākīya al-Sa`biya, Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya
面積=175万9540km2
人口(2008)=642万人
首都=トリポリTripoli(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=リビア・ディーナールLibyan Dīnār
アフリカ北部,地中海のシドラ湾周辺からサハラ砂漠にかけて広がる共和国。アラビア語ではリービヤーLībiyā。東はエジプト,スーダン,西はチュニジアとアルジェリア,南はニジェールおよびチャドと国境を接する。
住民
リビアはもともと,アフリカの代名詞であったり,エジプトの西というくらいの漠然とした地域を示す語にすぎなかった。現在のようなまとまりをなす国家としてのリビアの誕生は,19世紀末以降西欧列強によるアフリカ分割の結果であり,今日のリビアは最初,イタリア植民地としてスタートした。リビアの位置する北アフリカは,いわゆるベルベルが先住民であったといわれる。そしてこの地へはアフリカ内陸部やアフリカの外側からさまざまの種族の人びとが流入,とくに7世紀中ごろ以降,イスラムとともに侵入したアラブは11世紀半ばにはベルベルと急速に同化した。リビア人の大半が今ではアラブ系住民であるが,西部のガダミスやガットにいるトゥアレグ族や,トリポリタニア海岸平野の定住農民の一部のベルベル語と独自の生活習慣を守る人びとは純粋のベルベルである。またフェッザーンやキレナイカ南部には,かつてオアシス農業の奴隷として中央サハラから連れてこられ定着したトゥーブ人などの黒人住民もいる。非アラブ住民としてはほかにも,ユダヤ人(レコンキスタ期にスペインを脱出してきた,いわゆる東洋系ユダヤ人)や大挙して入植したイタリア人らもいたが,今では大半がリビアを去っている。宗教については,リビア人のほとんどがイスラム教徒である。
自然
大西洋岸から紅海岸にかけて広がる北アフリカ台地の一角を占めるリビアは,国土の90%以上が平坦な砂漠である。気候は乾燥しており,地中海沿岸部を除き年間降水量は200mmを切る。全般的に平坦な砂漠であるため,海岸地方を除くと夏・冬の気温差が大きく,夏には40℃を超えるが,冬には降雪をみるところもある。東のキレナイカと西のトリポリタニアにわずかに広がる海岸平野および付近の丘陵地帯は比較的雨量に恵まれた肥沃な地域で,人口の大半はここに集まっている。シドラ湾の東側,キレナイカ北部に突き出た半島を走るアフダル山地al-Jabal al-Akhḍal(標高500~600m)は,高地部分は年平均400~500mmの降水量のある森林地域であり,小麦,オリーブなどの栽培と牛・ヤギの放牧地をなす。
山地周辺の丘陵は雨量が少ない半砂漠状のステップ地帯となっている。ギブリーGiblīという乾燥し砂を含んだ熱風が南のサハラから年中吹きつけているが,10月から翌年4月にかけて地中海の湿った空気が雨をもたらすと大麦の主要産地に変わり,また山地南側は草が生え牧草地と化し,山地北側の水場にいた羊とラクダが南下してくる。一方,西部のトリポリタニアのジェファーラJefāra平野と,その背後の低い砂丘や石灰石の丘陵からなるジャバル・ナフーサJabal Nafūsaの北斜面も,穀物とオリーブ,ブドウなどの果物の栽培で古代から穀倉地だった所である。それらの海岸平野や兵陵地帯が切れると,低地のサハラ砂漠が南部一帯に広がっていき,南端は標高約1500mのティベスティ山地にぶつかる。砂漠にはオアシスが点在し,そこではナツメヤシ,ウマゴヤシ(飼料用)などの灌漑農業が営まれ,また20世紀の初めころまでサハラを渡る隊商ルートの中継地の役割を果たしてきた。
歴史,文化
今日のような範囲でのリビアの誕生は歴史的にみて新しいもので,古代以来リビアとは,エジプト以西の地中海沿岸地域を漠然と指し,ここは古くから,海や砂漠を越えた自由な人的・物的・文化的移動を活力としてきた土地柄であった。これに対しイタリア植民地として登場した近代リビアは,他のアフリカ諸国同様他地域との活発な交流を絶たれ,本来の開かれた世界としての活力を失った。
古代
リビア史は北アフリカ沿岸に古代地中海を渡ってきた人びとが築いた植民都市に始まる。当時の北アフリカにはすでに,平野部に農耕民,山間部に移牧民,草原の面影の残っていたサハラには遊牧民がおり,また内陸フェッザーンにいたガラマンテス人(トゥアレグ族の先祖)は中央アフリカやスーダンへの交易ルートを開いていたようである。地中海交易を掌握していたフェニキア人,ギリシア人はそうした条件下の北アフリカに植民都市群を建設,これらを,大麦,小麦,ヨーロッパから導入したオリーブやブドウなどを生産する穀倉地として,また黄金,象牙,奴隷,ダチョウの羽根などのアフリカ産品の交易基地として確保した。西のトリポリタニアには前8世紀,カルタゴを中心にフェニキア人の形成した西地中海交易圏の一環としてレプティス・マグナ(現,トリポリ),サブラータが,また前7~前6世紀に東のキレナイカにギリシア人のキュレネ,ベレニケ(現,ベンガジ)などの植民地群が建設された。植民都市群は一定の交易関係を除けば,内陸部とは断絶した,いわばヨーロッパ世界の一部であり,砂漠周縁のベルベル原住民の侵入や略奪に絶えず脅かされた。そうした植民都市の様相は,ローマ時代(前67~後6世紀半ば),ビザンティン時代(533-642)でも基本的に変わらなかった。
イスラム時代
7世紀半ば,アラブの軍事征服により急速に進展するイスラム世界の拡大過程は,642年のキレナイカ征服を振出しに北アフリカを巻き込み,その世紀のうちに北アフリカ全体がイスラム化された。アラブの軍事征服はビザンティン支配を排したものの,地元ベルベル人の強力な抵抗に直面し,間接支配に終始した。しかし,家族を連れた多くのアラブ軍人や,宗教家,商人が征服地の都市に住み,アラブ化した都市が軍事,行政,経済の中心として繁栄するや,周辺の住民はアラビア語を自らの言語とし,急速にイスラムに帰依していった。11世紀半ばにヒラールHilāl族をはじめアラブ遊牧諸部族が大挙して北アフリカに移住し現地住民と混血したことも,アラブ化・イスラム化に拍車をかけた。北アフリカに進出したムスリム商人は,黄金,象牙,ダチョウの羽根,奴隷などを求めてサハラ砂漠南縁の内陸アフリカへ下った。イスラム商業圏が飛躍的に拡大する9世紀以降,西サハラやチャド湖周辺の交易の中心地は,地中海沿岸やエジプトとキャラバン・ルート網で結ばれており,同じルートを経てアフリカ内陸のイスラム化が進んだ。こうしてイスラムの時代になると,北アフリカはアフリカ内陸部と密接に関係し合うことになった。
キャラバン交易の発展で,キャラバン・ルートの起点・中継点が多く位置するリビア地域の重要性が高まった。トリポリ,ミスラタ,ベンガジなどの港町,ガダミス,ガット,ムルズク,アウジアなどのルート中継点にあたるオアシスが,イスラム時代になって繁栄を迎えた。それらの都市では通過商品の取引(たとえばカイロからの各種織物,ガラス,インド産の諸品目,ベンガジからの嚙みタバコ,トリポリからの紙,鉄砲,毛織の赤色帽子,スーダンからの奴隷,金,チャドやニジェールからの銅など)ばかりか,周辺遊牧民の持ち込むナツメヤシ,乳製品,ヤギ,ラクダ,羊毛などの取引も行われ,また毛織物,皮革加工などの工業も発達した。キレナイカ奥地やフェッザーンの砂漠地帯はそのままティベスティ山地の南へ何の障害もなく広がっており,その広大な地域を,オアシスを根拠地にするトゥアレグ族や移住してきたアラブと混血した諸部族が季節に応じて自由に移牧し,また黒人奴隷を用いてオアシス農業を営んでいた。これら遊牧部族は,キャラバン・ルートの安全通行にも重要な役割を果たしていた。
リビアの沿岸地域は古代以来いわば征服軍の通路にあたり,その時々の政治体制に組みいれられてきたが,16世紀半ばエジプトから北アフリカ一帯がオスマン帝国領となるや,リビアも1551年キレナイカからトリポリタニアが同帝国の支配下に入り,78年,トリポリ・ベイ領としてオスマン帝国の直接支配に服することになった。オスマン帝国支配は1711年,土着化したオスマン軍人で地中海の海賊行為を拠りどころに台頭した,アフマド・カラマンリーAḥmad Qaramanrīの手に移り,リビアは1世紀余りの間カラマンリー朝(1711-1835)の支配にゆだねられた。しかし,トリポリを拠点とするリビア支配は,実質上,沿岸地域だけに限られた。キレナイカには,ベンガジなどに軍事・行政の拠点が設けられたが,遊牧民社会は支配の枠外にあり,またフェッザーンには14世紀,遊牧部族の興したフェッザーン首長国(首都はムルズク)が出現,それはキャラバンに対する関税を土台にトリポリの政治体制に名目的に服しながら19世紀初めまで自主性を貫いた。この首長国の南側一帯は,9世紀初めチャド湖周辺にできた巨大な黒人国家,カネム・ボルヌー帝国(11世紀にイスラム化)の支配地域にあたり,同帝国も19世紀前半まで強大な権力を維持した。フェッザーン首長国とこの帝国の間には平和的関係が保たれ,安定した両王国支配地域をキャラバンは,安全を保障されながら通過していった。こうしてリビア内陸部は,沿岸地域に劣らぬ経済力に恵まれ,独自の遊牧民世界を形成していた。
植民地時代
19世紀に入り西欧列強は,アフリカの領土的支配に取り組み,その影響がリビアにも現れた。フランスのアルジェリア占領を契機に西欧列強はカラマンリー朝の支配を打破し,また,1835年オスマン帝国によるリビア支配が回復され,63年トリポリ,ベンガジの独立2州制が施行され,支配が強化された。リビアはカラマンリー朝末期以来,諸地域の部族反乱に見舞われた。外圧に直面しリビアの一円的支配強化をはかる支配権力は,地方支配勢力の武力制圧によるキャラバン・ルートの直接支配や,土地制度の整備による徴税強化といった一種の近代化政策に取り組み,これに対し砂漠の遊牧部族の間に危機感が高まった。19世紀半ばキレナイカに始まったサヌーシー派のイスラム改革運動は,キレナイカ,フェッザーンはおろか,キャラバン・ルート沿いにフランスが占領に取りかかったスーダン中央部の諸部族の間で熱烈に支持され,19世紀末期フランスはチャド湖周辺で,サヌーシー派指導下の広範な抵抗運動に直面した。サヌーシー運動はリビアがオスマン帝国領からイタリア植民地に移行した1912年,広範な反イタリア闘争を組織,全リビアを反イタリア意識で結束させた。サヌーシー派自体は第1次大戦後内部対立を表面化させたが,イタリアのリビア植民地化の達成は,キレナイカでのムフタール指導の抵抗(1921-31)鎮圧を待たねばならなかった。リビアは植民地分割ラインで囲いこまれ,周辺アフリカ諸地域との人的・経済的つながりは最終的に閉ざされた。
政治
抵抗運動と独立
イタリア植民地時代のリビアは,イタリアの入植植民地として改造され,植民者の富とリビア人の貧しさが際だった社会となった。すでにイタリアは植民地化と同時に,イタリア人入植者に土地を与えるための一連の土地法を制定して入植を制度的に保証していた。19世紀まで栄えたアフリカ内陸とリビアを結ぶキャラバン・ルートは,19世紀後半の奴隷売買の禁止や交易ルートの変更で植民地化以降は衰え,リビアの輸出はせいぜい,エスパルト草や海綿といった新登場の商品が目につく程度となった。かつてのキャラバン・ルートで栄えた砂漠地帯は,貧しい遊牧民世界として放置された。ルートの起点であったトリポリ,ベンガジはインフラストラクチャー整備,食料など限られた近代工業の開発が進められ,近代都市へと景観を変え,沿岸地域では1930年代に近代農業の開発に力が注がれたが,それらの経済開発はあくまで入植者のためのものであった。第2次大戦中の42年,リビアはイタリア軍を打破したイギリスにトリポリタニアとキレナイカを,フランスにフェッザーンを軍事占領されることになる。戦後,リビアは51年12月にサヌーシー派のムハンマド・イドリース・アッサヌーシーを国王(イドリース王)とする連邦国家として独立を宣言し,52年,国連決議に基づき国際的にも独立を達成した。
新たなリビアの担い手として国王の地位にサヌーシー派の指導者イドリースが就いたのは,欧米諸国の支援によってである。欧米諸国はイドリースのリビア国民のシンボルとしての役割を重視,国内統一されたリビアを軍事基地として利用しようとの思惑があった。サヌーシー派はリビアの植民地時代に,かつての民族運動の指導勢力としての性格を伝統的ブルジョアジーのそれに変質させており,政治的独立の段階で国民統合のシンボルとして動かされ,リビアはそれら諸国の経済援助と引換えに軍事基地としての性格を強めた。60年代リビアに石油が発見され,リビアは対外的・経済的従属を断ち切って植民地支配からの解放の手がかりをつかんだが,イドリース王は石油資源を利権と引換えに国際石油資本の手にゆだね,石油はリビア国富としての威力を発揮せず,単なる王制存続の経済的土台に終始した。植民地時代以来のリビアの民族的解放の課題にとって,イドリース王政の打倒が先決となった。
リビア革命
1969年9月,カダフィーal-Qadhāfī(1941- )ら将校グループによるリビア無血革命でイドリース王政は打倒された。革命政府は70-71年,外国軍事基地の撤去,在リビア,イタリア人資産凍結,国際石油資本の施設の国有化等々,リビアを支配する外国勢力の中枢部分の息の根を止めはじめた。革命政権はアラブ・ナショナリズムを強調,アラブ世界の民族解放運動の隊列にリビアを加えるのを重視した。革命の指導者カダフィーは73年,〈第三の普遍理論〉(いわゆる《緑の書al-Kitāb al-akhḍar》)と称する独特の解放理論を打ち出した。従来の社会主義的解放理論とは異質の,〈イスラム社会主義〉とも称されるこの解放理論は,大衆の主体性をきわめて重視(〈大衆〉を意味するアラビア語ジャマーヒーリーヤを一般に〈共和国〉を意味するジュムフーリーヤに替えて,正式国名にかぶせたこともこの表れである),既存の諸制度は廃止され,全国民が参加する人民委員会,全人民会議が立法・行政全体を統括する体制がとられた。また同理論は,家族・部族などの〈血縁〉集団を重視するといった特徴もみられ,全体に,万物の法則に神(アッラー)の意志が貫かれているとの確信に支えられている。カダフィーが遊牧民社会の出身である点を念頭におけば,同理論にはかつての砂漠の遊牧部族民の世界が理想像として意識されている気配である。リビアは〈サハラ共和国〉構想を打ち出し,サハラ周辺諸国のジャマーヒーリーヤとしての一体化を提唱した。そこには,植民地支配の弊害を除去すべく,かつてサハラ部族世界で築かれていた,ムスリム同士の連帯感と隊商路・オアシスを介した社会的・経済的共存関係とに基づく平和の回復という実践的課題がこめられていた。しかし,サハラ周辺諸国が国民国家として厳然と存在している以上,同構想の具体化は容易でない。急進的なアラブ主義・イスラム主義的政策は,73年4月《緑の書》で提唱された〈文化革命〉によっていっそう強化された。さらに77年3月全人民議会で〈人民権力確立宣言〉が採択され,直接民主制確立のための国家改革が進められ,従来の革命評議会を解体して全人民会議をこれに代え,国名を〈リビア・アラブ社会主義人民共和国〉に変更した。
執筆者:藤田 進 なおチャドとのアオズ地区をめぐる紛争は,87年3月リビア軍の敗退があり,9月にこの地区の帰属をアフリカ統一機構(OAU)に一任することで暫定合意し,停戦した。94年国際司法裁判所はアオズ地域に対するチャドの領有権を認めた。これを受けてリビアは同地域から撤退,チャドと友好条約を締結した。
アメリカはリビアが国際テロ事件に関与しているとして非難していたが,86年4月リビアを爆撃した。EC諸国も外交官の追放や貿易制限などの制裁措置をとった。さらにスコットランド上空でのパン・アメリカン機爆破事件(1988年12月)のリビア人容疑者の裁判をめぐって,中立国での裁判を要求したリビアはアメリカ,イギリス,フランスなどの非難を受け国際的孤立を深めた。92年3月には国連安保理でリビア制裁決議が採択され,国際航空の乗入れ禁止,外交関係の縮小などの制裁が課された。93年11月の安保理決議でも制裁が強化された。制裁はリビア経済に深刻な打撃を与え,国内の政治批判や暴動などの社会不安をもたらしている。リビアは経済制裁に呼応するかのように外国人労働者を追放した。一方で制裁解除に向けての外交関係の改善を進めており,エジプトをはじめ対アフリカ関係については成果がみられた。
執筆者:編集部
経済,産業
リビアの経済は豊富な石油を基礎として成り立っている。品質がよく,単独で全輸出の100%近くを占める石油は,文字通りリビアの富の源泉である。1人当り国民総生産は5310ドル(1993)で,アフリカでは2位以下を大きく引き離して第1位である。しかし,世界的な石油のだぶつき傾向の影響で,年間1億t規模だった石油生産量は1978年ころから減少し,リビア経済全体にかげりがみえはじめた。リビアの石油輸出量は79年の7億1800万バレルから,80年6億1900万バレル(13.7%減)へ,石油収入も80年をピークに81年150億ドル,82年の100億ドル内外,86年には推計60億ドルへと減少した。それに伴い国際収支も悪化しはじめ,貿易収支が1979年76億8300万ドル,80年113億6900万ドル,81年16億2000万ドルと,81年になって黒字幅が一気にせばまり,貿易外も含めた総合収支は1979年26億2700万ドル,80年76億9200万ドルの黒字から,81年一挙に47億6800万ドルの赤字に転じた。80年に70億8900万ドルあった外貨準備は,81年46億1400万ドルもの債務状態へ転落した。石油の動向が経済を左右するのに加えて,機械,車両の圧倒的部分と,繊維,かなりの食料品(茶,砂糖,コーヒー,不作時には小麦)の輸入が不可欠なことも,リビア経済のアキレス腱である。農業についてみれば,国内総生産に占める割合はわずか3.9%(1986)で,可耕地は1.4%,農地にいたっては0.1%にすぎない。農業就業人口も1950年代70%だったのが,86年には13.9%となった。一方,リビアは1960年代以降の石油時代に入ってから,急速な都市化を迎え,トリポリとベンガジの都市部だけに全人口の92%が集中,さらに60万人近い外国人労働者も抱えるにいたった。国内食料品需要の8割方が輸入されており,農業問題はリビア経済にとって,ますます重大化しつつある。
リビアは豊富な収入の半分を国内開発にあて,1970年代は農業開発が開発事業の重点であった。76-80年度の五ヵ年計画では総額の21%が農業にあてられ,アフダル山地計画,ジェファーラ平野計画,クフラ・オアシス計画(1万haの灌漑事業)などにおいて,農場,農道,灌漑・排水施設,農産物加工業などの建設に取り組まれた。しかし,当初の農業開発予算の配分は計画途中から削減され,また81-85年度の開発五ヵ年計画では経済政策自体が工業重視に変更された。農業開発は実施に当たり諸困難に直面,農業技術上の制約から外国人の技術者や農民に依存せざるをえないといった問題も生じ,食料問題の解決までにはまだ相当の距離がある。
リビアの原油生産は,リビア革命後大幅にリビア側のコントロール下に置かれたが,依然全原油生産量の3分の1以上は外資系のオアシス・グループ(Continental,Marathon,Amerda)が掌握しており,リビア国営企業National Oil Co.の21%をしのいでいる。世界的な石油過剰生産にもかかわらず,石油のリビア化に向け国営油井の開発が進められている。リビアにとっては,単なる原油輸出国から脱皮し,原油,精製,石油化学工業の一貫生産実現が重要目標である。1970年以来これまでに六つの精製工場が建設され,80年代半ばにさらに三つが完成の予定であったが,経済状況の悪化により凍結を余儀なくされているものもある。また77年以来石油化学工業開発に重点が置かれ,アンモニア・プラント,エタノール・プラント建設で,それぞれ1日1000tの生産が可能となった。他の製造工業は,農産物加工業やじゅうたん,皮革加工などの伝統的分野に限定されたままである。リビアの工業化にとっては労働力の問題も深刻であり,外国人労働者抜きにはリビア産業は稼働しない現実である。82年度公式統計では,全就業人口77万4000人のうち25万2000人が外国人とされているが,実際の出稼ぎ外国人の数はこれをはるかに上回るものとみられている。
執筆者:藤田 進