日本大百科全書(ニッポニカ) 「救らい事業」の意味・わかりやすい解説
救らい事業
きゅうらいじぎょう
ハンセン病(旧称、癩(らい))の患者の救護と治療、および軽快した人たちの社会復帰を図るとともに、社会の偏見をただすことを目的とする事業をいう。
[大西基四夫]
古代から近世までの救らい活動
日本における救らいの歴史は、仏教の消長とキリスト教の伝来に伴って発展し推移してきた。古く奈良時代、光明(こうみょう)皇后がらい患者のために奈良に悲田院を建て、施療に自ら献身したことはよく知られている。鎌倉時代には僧忍性(にんしょう)が奈良に北山十八間戸、鎌倉の極楽寺に桑谷(そうこく)療養所を創設し、患者の救護と施療にあたった。キリスト教の伝来によって、ルイス・アルメイダが1556年(弘治2)豊後(ぶんご)の府内(現大分市)に病院を開き、患者を入院治療した。その後、長崎をはじめ各地にキリシタン病院が開かれた。しかし、江戸時代のキリシタン弾圧と鎖国によって病院は閉鎖される一方、この病気の難治性と肢体障害は社会の偏見を助長した。患者は家庭にとどまることも困難となり、介護や治療を受ける場を失い、苦しい放浪の時代となった。
[大西基四夫]
明治以降の救らい活動
明治になって、日本にきた外国人は患者の悲惨な情況に心を痛め、フランス人宣教師のテストビードGermain Testevuide(?―1891)が1889年(明治22)に静岡県御殿場市に神山(こうやま)復生病院を、1895年にはイギリスの女性宗教家ハンナ・リデルHannah Riddell(1855―1932)が熊本市内に回春病院をそれぞれ開設し、患者の救護と施療にあたった。その後東京の目黒に慰廃園(いはいえん)、熊本市に待労院(たいろういん)、山梨県身延(みのぶ)に深敬院(じんぎょういん)、群馬県の草津温泉湯ノ沢にバルナバ病院など、私設の病院がつくられた。
1907年(明治40)には「癩予防ニ関スル件」(法律第11号)が制定され、1909年には日本を5地区に区分し、5か所の公立療養所が設立された。当初は扶養者のいない病人の入院加療をしていたが、国は全患者の入院を計画し、この事業を拡大した。1931年(昭和6)より国立療養所を増設し、沖縄県を含む7か所の療養所を開設、戦場で発病した傷痍(しょうい)軍人のための療養所も加えた国公立13か所の療養所を厚生省(現厚生労働省)は一括して運営し、患者の早期発見、早期治療に努めた。
1947年(昭和22)ごろからは、いままでの大楓子油(だいふうしゆ)注射にかわって、DDS(ダプソン)などの有効な化学療法が使用されるようになったことから菌の減少が早まり、軽快する人も多くなって、手足の運動感覚麻痺(まひ)の少ない人々の社会復帰、退所が可能となってきた。
[大西基四夫]
らい予防法の制定
1953年に成立した「らい予防法」は、感染のおそれのある者を入所させるとあり、従来の隔離治療を持続する法律ではあったが、患者やその家族の福祉に対する配慮がみられた。また、青少年患者のために、高等学校を設置し、大学進学の道をひらき、社会復帰の意欲を高め、医療・教育など幅広い分野での活躍を可能とした。さらに、「らい予防法改正に関する附帯決議」(参議院厚生委員会)第4項「外出制限に適正を期す」、第7項「退所者に対する更生福祉制度の確立、更生資金支給の途を講ずる」などが化学療法の改善とあいまって、退所者をいっそう増加させ、隔離による閉ざされた療養所の門を開くことができた。
また民間の諸団体や貞明(ていめい)皇后の救らいの意志を継ぐ藤楓(とうふう)協会などの地道な啓蒙(けいもう)活動や慰問は、入所者および江戸時代からの偏見差別の思想に苦しめられているその家族を力づけ、社会復帰者を庇護(ひご)し、支援した。
[大西基四夫]
化学療法の改善とらい予防法の廃止
化学療法はさらに改善され、1975年(昭和50)ごろには多剤併用療法も確立された。菌の陰性化が早まり、再発も防止され、著しい効果をあげるようになった。また日本国内の新発症者も減少してきた。こうしてハンセン病は容易に治癒する病となり、感染のほとんどない普通の疾病となった。1996年(平成8)には「らい予防法」が廃止され、一般の医療機関で治療を受けられるようになり、届出の必要もなくなった。
しかし、化学療法が開始されるまでの間に視力障害や顔面四肢に重度の重複障害を残し、終生厚い看護・介護や福祉を必要とする人々が多数療養所内にいる。長い年月の隔離により家族や家庭を失った人々である。1996年4月1日施行の「らい予防法廃止に関する法律」では、これらのハンセン病回復者、障害者は、療養所内でこれまでどおりの手厚い看護・介護や福祉を引き続き受けられるように定められた。また、社会復帰している者も、希望すれば同様に入所して保護されることが定められている。
長年の隔離等により、差別や人権を侵害された患者・元患者の傷跡は重く、1998年以降、ハンセン病の治癒した元患者のうち1700余人が、「らい予防法」に基づく国の隔離政策により人権が侵害されたとして、国の賠償を求めて熊本地裁などに提訴していた。2001年5月11日、熊本地裁では、原告の主張を全面的に認め、予防法は、1960年には廃止されるべきであったとして、国家賠償を命じ、法改正の義務を怠った国会の責任も明確に認める判決を下した。国は、控訴を断念し、原告のみならず、元患者全員を対象とした損失補償や名誉回復策を実施することとし、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」(平成13年法律63号)が施行された。
「癩」ということばもハンセン病と改められ、日本では長い偏見と差別に満ちた歴史に終止符を打つことができたといえよう。
しかし世界、ことに東南アジアなどには治療も受けられずに苦しむ患者がはなはだ多い。これらの地域での救らい活動において日本に課せられた役割は大きく、その責任も重い。日本の各民間団体はインド、東南アジア諸国、南アメリカなどで治療や管理面で熱心な援助を行っている。
[大西基四夫]