イギリス大学モデル(読み)イギリスだいがくモデル

大学事典 「イギリス大学モデル」の解説

イギリス大学モデル
イギリスだいがくモデル

E.アシュビー,E.は,大学史を通じてモデル移植には四つの大きな波があったという。第1の波は15世紀,第2は16~17世紀,第3は19世紀,そして第4は第2次世界大戦後である。このうちイギリスモデルの移植について注目すべきは,第2の16~17世紀と第3の19世紀であろう。前者は北米植民地へのモデル移植,後者は帝国主義的進出の下,非西欧世界への移植を含んでいた。

[17世紀]

イギリス大学モデルの最初の輸出・移植は,17世紀の北米植民地に生じた。入植者たちは植民地での大学・カレッジ設立にあたっておもに本国イギリスを参照したが,モデルとなるべき大学はイギリスに限ってもオックスフォードケンブリッジの両大学(オックスブリッジ)があり,またスコットランドの大学もあった。植民地の状況にあわせ,そうしたモデルから取捨選択が行われた。オックスブリッジ・モデルからは,学寮(イギリス)(カレッジ(イギリス))での寄宿制と疑似家族的な学生の監督方式が採られた。オックスブリッジの学寮は,学位を授与し講義等も提供した「大学」(ユニバーシティ)とは独立の組織として,学生の生活面を親に代わり指導・監督し(in loco parentis),かつカレッジごとに学生を綿密に教育していたのである。

 このモデルを最初に受容したハーヴァード・カレッジ(アメリカ)は1636年,マサチューセッツ一般評議会(勅許を得た植民地および会社の運営機関)により,400ポンドの補助金を得て創設され,その3年後,蔵書と財産の一部を遺贈したジョン・ハーヴァード,J.(ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジの卒業生)を記念してハーヴァード・カレッジと名付けられた。同カレッジは寄宿制と疑似家族的な監督方式を採用する一方,当初から単独で学位を授与し,また単一の教育カレッジのまま発展していった。学位授与権を備えた大学と複数の教育カレッジとが,分業・組織化されたオックスブリッジ・モデルの部分的な採用であり,一部は逸脱といってよい。

 以後,ウィリアム・アンド・メアリー(1693年)イェール(1701年)プリンストン(1746年)などが設立されていったが,いずれもオックスブリッジを選択的にモデルとしたのである。財政・管理形態面では,オックスブリッジは王室や有志篤志家による大口の寄付や支援を長期にわたって受け,大学運営の実権は教員たちが掌握していた。これに対して北米植民地のカレッジは,ウィリアム・アンド・メアリーを除いて財政的に貧弱で,学長と若手チューターのみの教員集団は,外部の監督機関から強い統制をうけた。また,北米の植民地のカレッジの中には,スコットランドの大学から多様化した学習課程を採用したものもあった。いずれの場合にも,スペイン帝国下の中南米植民地の場合と異なり,北米における大学モデルの移植では,本国モデルの全面的模倣は望むべくもなかったし現実的でもなく,その結果,選択的採用や逸脱が生じた。しかしそうした紆余曲折の中に,イギリス大学モデルの特色はかえって鮮明化したともいえる。

[19世紀以降]

第3の波の時代,カナダ,オーストラリア,インド,アフリカなどの植民地における大学・カレッジの設立にも,イギリス大学モデルが大きな影響を及ぼした。オックスブリッジ,ダブリンのトリニティ・カレッジ,ロンドン大学(イギリス),マンチェスターなどの市民大学,スコットランドの大学が選択肢となったが,概していえば,この時代の有力モデルは学外学位(イギリス)制度を有するロンドン大学であった。

 ロンドン大学は1826年,イングランドの第3の大学として設立されたが,学位授与権を有する大学として安定した機能を発揮するには1836年までの10年を要した。この間,当初のロンドン大学自体はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(イギリス)と改名し,1829年に創設されたキングズ・カレッジと並んで,学生を教育するだけの機関となった。他方1836年,ロンドン大学の名称の下,前二者の修了生に試験を実施して合格者に学位を授与する,教育機能をもたない試験機関・学位授与機関が新たに登場した。これと上記二つのカレッジとが相まって初めて,学生の教育と学位の授与という,大学の十全な機能を果たす広義の意味でのロンドン大学が誕生したのである。

 この一面不可思議なロンドン大学モデルは,しかし,制度上の利点も備えていた。西欧的な大学制度を新規に導入したインドやアフリカの植民地は,一定のカリキュラムに基づくカレッジを普及させると同時に,カレッジ間のばらつきや水準低下による大学の威信の失墜を回避せねばならなかった。学生の教育に専念する植民地のカレッジと,学位認定試験を実施するロンドン大学との垂直分業(学外学位制度)は,そうした困難な舵取りを可能にする有力な方法を提供したのである。

 19世紀のカナダやオーストラリアでも,たとえばトロント大学(カナダ)ではオックスブリッジ風の学寮制度が構築され,一方,シドニー大学(オーストラリア)ではロンドン大学モデルの採用が試みられた。20世紀前半のアメリカ合衆国では,ハーヴァードやイェールがオックスブリッジ流の寮を建設し,また学生に自主独立の高度な勉学を奨励するオーナーズ・プログラムが流行した。イギリス大学モデルは,世界の多様な地域に長く深い影響を及ぼしてきたのである。
著者: 安原義仁

参考文献: Eric Ashby in association with Mary Anderson, Universities: British, Indian, African: A Study in the Ecology of Higher Education, London, 1966.

参考文献: John Roberts, Agueda M. Rodriguez Cruz and Jurgen Herbst, ‘Exporting Models’ in Walter Ruegg(General Editor), A History of the University in Europe, H.D. Ridder-Symoens(ed.), Volume II, Universities in Early Modern Europe(1500-1800), Cambridge, 1996.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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