日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスラエル王国」の意味・わかりやすい解説
イスラエル王国
いすらえるおうこく
紀元前11世紀にイスラエル人がカナーン(シリア、パレスチナ)の地に樹立した王国。カナーンの地に定着し、唯一神ヤーウェ信仰を中心に国家的集団を形成するに至ったイスラエル諸部族は、前11世紀の終わりに、海の民ペリシテ(フィリスティア)人の侵入に促されて、カナーンの地に初めて王国を樹立した。ベニヤミン人の名望家の子として生まれた貴族的氏族出身のサウルが、宗教的権威者であり預言者であったサムエルから油注ぎを受けて聖別され、初代の王に選ばれた(在位前1020~前1004)。武将ダビデとの悲劇的な争いののち、ペリシテ人との戦いに敗れて3人の息子とともに陣没した。サウル王権は、後のダビデ、ソロモンのそれに比べれば、部族制社会に基礎を置く地方政権にすぎなかった。その後ダビデが王位を継いだ(在位前1004~前967)。ペリシテの属王とみなされていたダビデは、ペリシテ人に反旗を翻し、優れた軍事力と政治力とをもってペリシテ人の支配から脱し、南北いずれの部族にも属さないエブス人の町エルサレムを攻略し、南北両王国を同君複合の形で統治した。エルサレムを首都と定め、同地を政治、軍事、宗教上の一大拠点として、近隣諸国を征服し、さらにシリアのアラム人をも破って、南は紅海から北はユーフラテス川に達するイスラエル史上最大の支配領域を築き上げ、それを嗣子(しし)ソロモンに残した。ダビデ王国は、兵制のうえからは傭兵(ようへい)制度的王国であった。ソロモンの即位は、イスラエル王国のカリスマ的理念を打ち破った王位世襲制の第一歩であった。ソロモン(在位前965~前928)は、官僚国家の諸制度を確立し、人民に重税を課する一方、エルサレムに宮殿や神殿を建造し、黄金時代を築いた。とりわけ、活発な対外交易活動を通じて経済的発展を図り、軍備を強化して、万一の場合に備えた。広大な領土を防備するために、要害の地に高度な技術を投入して要塞(ようさい)諸都市(ハツォル、メギッド、ゲゼル、アラド)を築き、強大な軍備を整えた。メギッドからは数百の厩舎(きゅうしゃ)が発掘されている。
ソロモンの酷政とその子レハベアムの暗愚とにより、王国は、南のユダ人とベニヤミン人とを含む南王国(初代の王レハベアム)と、北の10部族からなる北王国(初代の王ヤラベアム1世)との独立王国に分裂した(前928)。北王国はサマリアをおもな拠点としてイスラエル王国の名を継承し、南王国はエルサレムを基盤としてユダ王国となった。北王国は、南王国よりも経済的、文化的に富んでいたが、宗教的には異教化の危険にさらされ、200年の間に8回もの革命を重ねたのち、前721年アッシリア王サルゴン2世によって滅ぼされた。一方、南王国は北王国滅亡後も存続し、アッシリア、エジプト両勢力の間に立たされて内政、外交ともに振るわず、前586年新バビロニア王ネブカドネザル2世によって滅ぼされ、すべての役人たちと上流階級が捕らえられバビロニアへ移された(バビロン捕囚)。
[高橋正男]