翻訳|Samaria
古代イスラエル北王国の首都。パレスティナ中央部の都市シケム(アラブ人はナーブルスと呼ぶ)の北西11km,高さ91mの丘(標高440m)の上にある。前9世紀初め,イスラエルのオムリ王が建設,さらにその息子のアハブ王が堅固な要塞都市に改造した。アハブはフェニキアの女イゼベルを王妃にしただけでなく,フェニキア文化の導入に積極的な態度を示した。当時フェニキアは高度の象牙細工の生産地として有名であったが,象牙細工の装飾をほどこした調度に満ちたアハブ王の宮殿は〈象牙の家〉と呼ばれた(《アモス書》3:15)。サマリアは夏は涼しく快適だが,冬の冷え込みが厳しいため,アハブはサマリアの王宮を夏の宮殿とし,冬はより温暖なエズレル平野に建てたもう一つの宮殿で過ごした。
前722年,北王国(イスラエル)はアッシリア帝国の軍隊によって滅ぼされ,捕虜として連れ去られたイスラエル人に代わって,サマリアには各地から来た異民族が住み込んだ。サマリアはアッシリア帝国の行政県サメリナSamerinaの中心地となり,その地位はペルシア時代になっても変わらなかった。バビロニアから帰還したユダヤ人がエルサレム神殿を再建したころからサマリア人との反目対立が始まったが,後には〈善きサマリア人の譬(たと)え〉(《ルカによる福音書》)が生まれる。サマリア人の子孫を自称する人々が今でも少数ながらシケムやテルアビブ近郊のホロンに集まって住み,古くからの習慣を守っている。
執筆者:池田 裕
サマリアに関する美術の主題としては,〈サマリアの女〉と〈善きサマリア人の譬え〉がある。〈サマリアの女〉(ユダヤ人と交際のないサマリア人の女にイエス・キリストが井戸の水を飲ませてほしいと頼み,不審に思う女に,〈わたしが与える水を飲む者は渇くことがない〉と生命の水について教える説話--《ヨハネによる福音書》4:1~30)は,早くから洗礼を示唆するものとみなされ,カタコンベや石棺に表現された。〈善きサマリア人の譬え〉(強盗に遭ってけがした男を祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通りすぎるが,サマリア人は傷の手当をして宿屋まで連れてゆき,自分の費用で主人に世話を頼む--《ルカによる福音書》10:29~37)は,隣人とはだれかと律法学者に問われてキリストが語ったたとえ話である。この善きサマリア人は中世にはキリストとみなされ,しばしば十字架の光輪をつけて表現された。16世紀以降,この主題は隣人愛の模範例として,けが人と彼を助けるサマリア人を中心に表現されるようになる。
執筆者:荒木 成子
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パレスチナ中央部、エルサレムの北方約60キロメートルに位置する古代都市。イスラエル(ヘブライ)王国が南北に分裂後、紀元前9世紀初めから北のイスラエル王国の首都となった。ローマ帝国の支配下に入ってからは、北のガリラヤ、南のユダヤに狭まれる丘陵地帯をさす地方名となった。前722年のアッシリアによる占領後、この地に移住した異民族と残留ユダヤ人との混血によって生じたのがサマリア人である。この混血と異教との混合のため、ユダヤ人から激しく排斥され、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が神殿を再建したときにも参加を認められなかった。この両者の反目と、これを超越しようとしたイエス・キリストの教えは『新約聖書』(ヨハネ福音書(ふくいんしょ)4章)にみられる。現在も約300人の子孫がいるといわれる。
[漆原隆一]
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…このあと,王位をめぐって数年間内乱が続いたが,前878年オムリが王になった。オムリはサマリアに王都を定める一方,ユダ王国と平和条約,フェニキア人と通商条約を結んで,北王国に初めて安定した王朝を建てることに成功した。このため,アッシリア資料は,オムリ家が滅亡したのちも,北王国を〈フムリの家〉と呼ぶ。…
※「サマリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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