日本大百科全書(ニッポニカ) 「イル・ド・フランス」の意味・わかりやすい解説
イル・ド・フランス
いるどふらんす
Île-de-France
フランスのパリ盆地中央部の地方、旧州名。北はピカルディー、東はシャンパーニュ、南はオルレアネ、西はノルマンディーの各地方に接する。本来、セーヌ川中流とその支流オアーズ川、エーヌ川、マルヌ川などの水流に囲まれたフランク人居住地をさしていた。「フランスの島」を意味し、フランス王国発祥の地である。
フランクの豪族ロベール・ル・フォールRobert le Fort(?―866)の一族は、この地方に侵攻したノルマン人を撃退し、ここをロベール家の家領とした。このロベール家からフランス最初の王朝カペー王朝が生まれた。この地方は早くから三圃(さんぽ)制農法が行われ、豊かな収穫が約束された沖積層地帯であり、セーヌ川水系の諸河川は通商の要路として活用された。このような地の利はフランス王権発展の基となった。王権の発展に応じて、王家の城館や大聖堂がこの地方に集中する。ルイ9世時代のサン・ジェルマン・アン・レーの居城や16世紀フランス・ルネサンスの保護者フランソア1世の築いたフォンテンブロー宮、そして歴代国王の墓所となったサン・ドニ大聖堂などがそれである。政治と文化、富が首都に集中し始める17世紀には、パリ在住の貴族や高級官僚、そして富裕市民たちは、近郊に別荘を築くようになる。ルイ14世のねたみを買った財政総監フーケのボーの城館、文芸サロンで知られるランブイエ候夫人の城館などである。そして、もっとも壮大な建造物と庭園がイル・ド・フランス西部の丘陵に建設される。それがルイ14世の築いたベルサイユ宮殿である。宮殿の建設は、村々を取り壊し谷を埋め、台地を広げ、運河を掘るという、この地の自然を改造するほどの大事業であった。
このようにイル・ド・フランスはフランス王権の歩みとともに変容した。この王権を打倒したフランス革命は地方行政制度を改革した。イル・ド・フランスという旧州も1790年をもって消滅した。現在のイル・ド・フランスは行政地域名として用いられ、パリとオー・ド・セーヌ、バル・ド・マルヌ、セーヌ・サン・ドニ、イブリーヌ、セーヌ・エ・マルヌ、バル・ドアーズ、エソンヌの8県を含む。パリを中心とする同国の中心部で、多くの工業都市や住宅都市を含み、大都市パリへ農産物や日用品を供給している。面積1万2012平方キロメートル、人口1095万2011(1999)。
[千葉治男]