パリ南西郊ベルサイユにある,ルイ14世の造営になる宮殿。東端に位置する宮殿château,その背後に広がる庭園,離宮グラン・トリアノン,プチ・トリアノンなどからなる。
騒擾(そうじよう)事件が頻発し衛生状態のよくないパリの町を嫌ったルイ14世は,郊外の森に囲まれた田園地帯に,ルイ13世時代の狩りの館を大々的に作りかえる形で,まったく新しいタイプの宮殿,そしてそれに付属する都市を構想し,その意匠を王宮建築家たちにゆだねた。田園地帯に幾何学的な形態をまとった宮殿と都市とが新たに計画された例としては,それよりも半世紀ほど早く枢機卿リシュリューRichelieuの主導によって進められたリシュリューの町と城館の建設がもっとも先駆的な事例として知られているが,ベルサイユの場合は,それを国家的規模で行い,しかも国王の居館のみならずパリにあった政府機関をすべてそこに移し直したという点で稀有のものであった。実際,宮廷関係の人間は約2万人にも及び,そのうち貴族,執政者が1000人,その家臣4000人,計5000人前後が宮殿内に起居し,さらに1万4000人にものぼる従者や兵士たちが付属の建物,ないし町の中に住んでいたと伝えられる。
建設は1661年に開始され,82年には政府機関がパリからこの地に移される。宰相コルベールの下で当初宮殿の設計にあたったのは王室首席建築家のル・ボーであったが,彼の死にともなってJ.H.マンサールがその任を継ぎ,宮殿を今日の形になした。マンサールはフランスにおけるもっともバロック的な精神を代表する建築家であり,宮殿の配置や形態,内部の意匠にその具体的な例を認めることができる。左右対称の宮殿の中心を貫く軸線に沿って,外側から大厩舎,正門,〈大理石の中庭〉,国王の居室〈鏡の間〉が配され,その両側には長大な南北翼を備える。さらに背後にはル・ノートルの手になる壮麗な庭園が控えている。宮殿正面に向けて,放射状に広がる街路が集中するよう計画されるなど,国王の居室が都市と宮殿すべての中心として位置づけられており,都市計画も放射状平面にもとづいている。その後,マンサールは広大な敷地内に閑静な離宮グラン・トリアノンGrand Trianonを完成させるが,そうした小館の建設はルイ14世の死後も続き,ポンパドゥール夫人のためのプチ・トリアノンPetit Trianon(1768。ガブリエル設計),マリー・アントアネットのためのアモーHameau(田舎家。1783,ミックR.Mique設計)など,時代の思潮に合わせて珠玉の建築作品が生み出された。
同宮殿は,ルイ14世の威光を照らし出すかのように全世界に強い影響を与え,18世紀初頭から半ばにかけてウィーン郊外のシェーンブルン宮殿(1696-1713)やペテルブルグ郊外のペテルゴーフ宮殿(現,ペトロドボレツ宮殿。1745-47)など各地にベルサイユにならった宮殿の建設が相次いだ。日本の赤坂離宮(現,迎賓館)も,ベルサイユ宮殿をモデルとしている。
執筆者:三宅 理一
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パリの南西およそ20キロメートルのベルサイユにあるブルボン王家の離宮。太陽王ルイ14世の宮廷として造営されたフランスの絶対主義王制を象徴する建造物。フランス国王ルイ14世にとり、宮廷を豪華に装い、権力・財力を内外に誇示することは政治的にも重要な意味をもつものであったが、「われは国家なり」と豪語した彼の雄渾(ゆうこん)な意図が総合的に具現されたのがベルサイユ宮殿であった。この建造物の中核をなしているのは、父王ルイ13世がルメルシエに命じて1626年に建立させた狩猟用別荘である。ルイ14世はまずこの中核部に連なる翼屋(よくおく)の増築をルイ・ルボーに求めた(1661)。しかし、庭園に面した正面の設計を終えただけでルボーは死去し、工事はアルドゥアン・マンサールに引き継がれた(1679)。ルボーの設計を踏襲しながら翼屋が左右に拡張され、内外部の工事がすべて完了するのはルイ・フィリップの治世(1830~48)になってからである。
庭園側の正面は古典的デザインで構成されるが、中央部と両端部はやや前方に張り出した列柱で外観にアクセントを与え、上端部には石材彫刻を並べてバロック的な曲折をみせる。屋内の中心部は有名な「鏡の間」で占められ、その両端には「戦争の間」と「平和の間」が配される。国政の審議に使われた「鏡の間」はマンサールが設計し、ルブランが装飾にあたった。金泥を多く用いたバロック風の壁面装飾を古典的モチーフの片蓋(かたぶた)柱が力強く分節し、長大な円筒穹窿(きゅうりゅう)を支えている。全長550メートル、1万人を収容するといわれるベルサイユ宮殿は、国王を中心とする宮廷生活の舞台装置を思わせる。ル・ノートルの設計になる庭園は宮殿の空間的延長といえるほどに、この建築と密接に関連しており、群像で装われた多くの池泉やルイ14世の大トリアノン(1688~91)、ルイ15世の小トリアノン(1761~68)、マリ・アントアネットのアモー(小村落、1782~86)などの建築が、自然の環境を背景にして、ルイ王朝の華麗な様式美を今日に伝えている。
今日では、宮殿中央部、礼拝堂、劇場などを除いて、南北両翼部には豊富な美術品が展示され、庭園ともども歴史美術館として一般に公開されている。1979年に宮殿、庭園ともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[濱谷勝也]
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…強力な王権を前にしては,有力貴族も高位聖職者も,競って宮廷に馳せ参じ国王の恩恵にあずからざるをえない。ルイ14世によるベルサイユ宮殿の建造は,まさにこの新しい時代を象徴するものであった。ルイ14世は1682年ベルサイユに移り住むが,その盛時には1000人を超す宮廷貴族や高位聖職者が,この広大な宮殿に居室を与えられ,その従者の数は4000人に及んだという。…
…こうした宮殿の拡張は,王権の拡大にみごとなまでに対応していた。
[宮殿都市]
近世の宮殿にとって画期的なできごととなったのは,太陽王ルイ14世によるベルサイユ宮殿の造営である。1661年に起工され,その後建設総監J.アルドゥアン・マンサールの指揮によって遂行されたこの事業は,大都市パリの混乱を離れて新しい理想的な宮廷都市を建設し,その中心に宮殿を据えるという壮大な計画であった。…
…彼の出世作は,マザランのもとで大蔵卿をつとめたフーケの城館,ボー・ル・ビコントVaux‐le‐Vicomteの庭園で,それは南北1.2km,東西0.6kmの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり,ル・ノートルは有名なベルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ここでは宮殿中央の〈鏡の間〉前のテラスから南へと〈王の並木道〉が延び,その先がカナールになって,それがはるか天と地の境にまで延びていっているように見える。…
…しかし,レンブラントに,立って放尿する男女の絵があるように,外国でもあまり事情は変わらない。便所がないベルサイユ宮殿では,ルイ王朝期のフランス人形のような衣装をまとった美女たちも,立ったまま便器を用いることがあった。メキシコの男はしゃがみ,女が立って放尿するとされるが(G.ラムシオ《海陸紀行全集》),古代エジプトでも同様である(ヘロドトス《歴史》巻二)。…
…1627年にイタリアから帰ったブーエがルイ13世の宮廷画家となった時期が,フランスにおける公的芸術の始まりといえよう。また,ルイ14世の即位(1643)後に,王権の示威であるベルサイユ宮殿の造営が国家的事業として開始される。この間のフランス・バロックのもっとも重要な特色は,建築,彫刻,作画,工芸,造園の総合的演出のもとに,壮大と秩序と豪奢を追求したことである。…
…ヨーロッパ中がバロックの波に覆われた17世紀において,フランスだけが厳しい古典主義美術を完成させたという事実が,そのことを雄弁に物語っている。ベルサイユ宮殿の全体構想の雄大さは,たしかにバロック的感覚に通ずるものがあるが,有名な〈鏡の間〉のある庭に面した正面部のみごとに秩序づけられた構成は,ボロミーニやペッペルマンの果てしなく増殖するようなダイナミックな正面部とはまったく異質のものである。ルイ14世の時代に,バロックの王者としてヨーロッパ中に君臨していたイタリアの大家ベルニーニを招いてルーブル宮殿東正面の設計を依頼しながら,結局そのせっかくのベルニーニの案を採用せず,古典主義的なペローの列柱構成を実現させたのも,同様の合理的秩序感覚の表れにほかならない。…
…軸線,左右対称性に加えて庭園全体の透視図法的効果,円や正方形あるいは円錐や角柱状に整えられた庭園構築物,植栽などが,この庭園を特徴づけている。この成功に引き続き彼はベルサイユ宮殿の庭園を手がけることになり,大運河,噴水といったバロック的演出効果をともなった大庭園をつくり上げる。王室造園家として他にも,フォンテンブロー,マントノン,サン・クルーなどの庭園設計に携わった。…
※「ベルサイユ宮殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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