ドイツの詩人ゲーテの長編小説。「修業時代」Lehrjahre(1796)と続編「遍歴時代」Wanderjahre(1829)の2編がある。一個の人間が社会のなかでいかに自己を形成してゆくかを主題とするドイツ教養小説の代表作品。戯曲『ファウスト』と同じく、その成立に50年以上を要しており、ゲーテの生活と思想を知るうえでも重要である。ゲーテは初め、主人公ウィルヘルムがドイツの国民演劇を創始することをテーマとして『ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命』を書いたが、これは中断され、のちに新しい構想のもとに書き直された。これが「修業時代」である。初めの演劇的経験は主人公の人生修業の一段階にすぎず、彼は「塔の結社」というフリーメーソン風の秘密結社によってより広い世界に導き入れられ、具体的に世のためになる実践的生活に入るべきことを学ぶに至る。富裕な商人の子マイスターは芝居に熱中するうちに女優マリアーネを愛するが恋に破れ、やがて自分も旅回りの劇団に加わり、貴族社会に接し、「美しき魂」といわれる敬虔(けいけん)な女性によって宗教生活の美しさを知る。主人公の成長に大きな影響を与えたシェークスピアの世界を知らせたヤルノー。その妹で恋に破れて死ぬアウレーリエ。その愛人で、新しい農業経営法によって実際的生活の意義を探るロターリオ。その妹ナターリエは、かつて盗賊に襲われて負傷したマイスターを助けた騎馬の女性であるが、2人は最後に結ばれることになる。マイスターを慕うミニヨンと老竪琴(たてごと)弾きは奥深い歌によって人生の深淵(しんえん)をのぞかせ、見知らぬ国への憧憬(しょうけい)をかき立てる。はすっぱで官能的で純情なフィリーネの魅力的な姿も忘れがたい。
続編では、遍歴の旅に出た主人公が、産業革命以後の社会的変革を予想させるさまざまな環境で見聞を広めながら、近代社会では多面的教養が究極の目的ではなく、一つの具体的な職能を身につけるべきことを悟る。とりわけ「教育州」で彼が学ぶ三つの畏敬(いけい)、「われわれ以上のもの、われわれに等しいもの、われわれ以下のもの」に対する畏敬の教えが印象的である。「遍歴時代」はまとまりのある小説というよりは、さまざまな小話の集成であって、ゲーテはそこで、新時代に生きる人々に向かって自分の最晩年の思索や問題意識を自由に開陳していると考えられる。
[小栗 浩]
『前田敬作・今村孝訳『ゲーテ全集7 ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1982・潮出版社)』▽『登張正実訳『ゲーテ全集8 ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1981・潮出版社)』
ゲーテの長編小説。《修業時代Wilhelm Meisters Lehrjahre》8巻(1796)と《遍歴時代Wilhelm Meisters Wanderjahre》3巻(1829)とから成っているが,両者は内容・構成の面で著しく異なっている。題名はドイツの伝統的な職人の徒弟制度の名称を取り入れ,秘密結社フリーメーソンとの関連を暗示している。
《修業時代》は,第6巻〈美しき魂の告白〉を中心に前半と後半に分かれ,主人公ウィルヘルムだけでなくさまざまな男女の人間形成の正と負の可能性を描いている。当時アメリカでは独立宣言,フランスでは大革命,イギリスでは産業革命が行われていた。そのような時代にドイツの市民階級出身の青年ウィルヘルムは,女優に恋をしたり国民劇場の創設を夢見たりしながらやがて演劇の世界に幻滅し,市民化した貴族の集りである〈塔の結社〉の人々の指導に従って実践的活動に従事しようと決意する。これに対し,古いバロック的宗教性に生きた〈美しき魂〉の女性は現世逃避に陥り,愛と詩歌と内面性のみに生きるミニョンや竪琴弾きは没落していくことになる。《修業時代》は,いわゆる〈教養小説〉の典型として,ロマン派をはじめドイツの多くの作家たちによって模倣されたが,この作品に含まれている市民性と芸術家性のいずれを高く評価するかに従って模倣の仕方が異なってくる。
《遍歴時代》は独立の作品として発表されたいくつもの短編やメルヘンのほか,手紙,日記,箴言(しんげん)などが挿入されているため形式の統一を欠き,長いあいだ過小評価されてきた。しかし注意深く分析すればどの挿入部分にも本筋におけると同様に諦念の主題が一貫して扱われており,この〈赤い糸〉を手がかりに,主人公ウィルヘルムと息子フェリックスの親子2代にわたる自由と必然,精神と自然の葛藤を理解することができる。《遍歴時代》が20世紀の小説の先駆とみなされるようになったのも,いわれのないことではない。
執筆者:木村 直司
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…教養小説は,それがすぐれたものであればあるほど,こうした現実を作中に背負いこむことになり,その結果,主人公の自己形成は非常に困難な課題として描かれる。ゲーテの《ウィルヘルム・マイスター》(〈修業時代〉1796,〈遍歴時代〉1829)は教養小説の典型だとされているが,〈修業時代〉において主人公ウィルヘルムを自己形成へと導く〈塔の結社〉の人々は,〈遍歴時代〉の結末においては,理想の共同体を実現するために,ヨーロッパを離れて新世界(アメリカ)へ旅立つ。また,ヘルダーリンの《ヒュペーリオン》(1797,99)の主人公は,自由な個人の存在を可能にする理想の国家の実現をめざしてギリシア独立戦争に参加しながら,戦争の現実に絶望して隠者となり,自然の美しさのなかにわずかな慰めを見いだす。…
※「ウィルヘルムマイスター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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