ドイツ北西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。人口27万0038(2004)。中世以来ウェストファーレンの商業,政治,文化の中心地。市東部にドルトムント・エムス運河が通じ,機械,電機,化学,繊維工業などが行われる。1780年創設のウェストファーレン・ウィルヘルム大学,ノルトライン・ウェストファーレン憲法裁判所などがある。その起源は,カール大帝がザクセン族キリスト教化のため792年布教者リュートガーLiudger(742ころ-809)にこの地一帯を伝道地として与え,9世紀初頭ここに司教座が置かれたことによる(町の名は,ラテン語のモナステリウムmonasterium(修道院)に由来)。やがて遍歴商人がここに集住し〈ウィクwik,vik(市(いち))〉と呼ばれる集落を形成。11世紀初頭までに司教は諸々の高権を獲得し都市領主となる。11世紀中葉手工業者が流入,手工業市場が定期的に立ち始める。1121年ロタール3世の軍で市は焼けるが,司教と市民の協力で再建,以後の市街構造の骨格を形づくる。1168年までに平和的形態をとって都市共同体が確立。13世紀にハンザ同盟に加入し,1278年市壁完成。同年司教と戦い勝利,司教裁判権を譲歩させたほか軍事高権,領邦議会出席権など広範な自治権を獲得。司教は市から出て司教庁を領内の城に移す。以来領内17都市の筆頭として市は司教座聖堂参事会とともにラントシュテンデ(ラント議会)を代表し,14世紀には経済的繁栄の絶頂に達し,人口も8000以上になる。市参事会は〈エルプメナーErbmänner〉と称する都市貴族が独占していたが,14世紀から形成された手工業諸ギルドは15世紀初頭,ゲマインデ代表機関たる全ギルド会議を結成,1430年市参事会に対し共同統治権を獲得,15世紀中葉二つのフェーデを通じて力を増し,ギルドの名士たち(ホノラツィオーレンHonoratioren)が市参事会の席を多数占めるようになる。再洗礼派王国(1534-35)後,市は自治権を奪われ,全ギルド会議を解体されるが,やがて復活,三十年戦争中あまり被害を受けず,ウェストファリア講和会議の場の一つとなる。しかし司教クリストフは市の自立強化を恐れ,1661年長い包囲後降伏させ,市の諸特権を奪い経済的没落に導く。1802-03年にミュンスター司教領は解体され,市はプロイセン領,10年フランス領,15年再度プロイセン領となり,第2次大戦までウェストファーレン政庁所在地。第2次大戦で空襲をうけたが,ロマネスク・ゴシック様式の大聖堂ザンクト・パウル(12~13世紀),ドイツの世俗ゴシック建築の代表作で,その正面の装飾で知られる市庁舎(14世紀)などが再建された。
執筆者:倉塚 平
ドイツのヘブライ語学者。マインツに近い村インゲルハイムに生まれ,ハイデルベルクとウィーンで学び,チュービンゲンの神学・哲学教師,ハイデルベルク大学ヘブライ語学教授を経て,1529年バーゼル大学ヘブライ語学教授となり,在職中に没した。彼の名が歴史にとどめられているのは,1544年に初版が刊行され,以後1世紀以上にもわたって利用されたその著書《宇宙誌(コスモグラフィア)》のためである。それまでの宇宙誌が数理地理的性格の強いものであったのに対して,彼のは地誌に重点を置く,便利ないわば世界地理歴史百科であったからである。それ以前にもE.エツラウプ作の地図の編集(1525),中世の世界奇談集たるG.J.ソリヌス,P.メラの著書の注釈本(1538)や古代のプトレマイオス地図帳の増補版(1540)を手がけている。彼の《宇宙誌》は6ヵ国語に訳され,合計46版に及んだといわれる。
執筆者:海野 一隆
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ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。人口26万5600(2000)。いわゆるミュンスターラントの古くからの中心地で、司教座聖堂を核に発展した。ウェストファーレン・ウィルヘルム大学がある大学都市であり、またライン地方と北ドイツ地方を結ぶ鉄道やアウトバーン、およびドルトムント・エムス運河が通る交通の要衝でもある。農産物の集散も盛ん。工業には農業機械、繊維などがある。市街は聖堂とその広場、その東側を縁どる中心商店街のプリンチパル・マルクト、ゴシック様式の市庁舎、ランベルト教会などが核をなし、聖堂の西側地区には大学の建物群が目だつ。旧市街を取り巻く近世の市壁は緑豊かな遊歩道にかわっている。市壁の西に接した司教領主の城館は、陸軍の司令部を経て大学本部に転用された。市は第二次世界大戦で被災したが、戦後もとの姿に復原して歴史的都市の姿をとどめている。しかし、旧市の外側ではアー川をせき止めて人工湖をつくり、大学の新しいキャンパスを北西側に新設するなどの変化もみられる。市の郊外にはボーンホルツ城など、ワッサーブルク(水に囲まれた城の意)が点在し、観光地となっている。
[小林 博]
8世紀末この地に設立された修道院(804年司教座に昇格)を囲む集落に起源をもち、地名はその修道院(モナステリウム)に由来する。アー川の渡河地点に位置して商業・交通の中心となり、10世紀なかばには都市となった。13世紀後半には司教の都市支配から独立して自治権を得、同じころハンザ同盟にも加盟した。1447~57年にはギルド闘争が起こり、ギルド員の市政参加が実現した。宗教改革では、初めルター派が導入されたが、1534年ヤン・ファン・ライデン(オランダから来住)ら再洗礼派が市を占拠し、翌年司教軍により鎮圧、虐殺された。ヤンの遺体は金網のかご(現存)に入れられ、ランベルト教会の塔にさらしものにされた。三十年戦争に際して、1645年この町で戦争終結の予備会談が開かれ、ミュンスター条約が結ばれ、1648年これが各国の調印を経てウェストファリア条約となった。
[瀬原義生]
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ドイツ,ヴェストファーレン地方の都市。司教都市として発展,13世紀半ばハンザ同盟に加わり,また,宗教改革の際には再洗礼派の拠点となった。オスナブリュックとともに,ウェストファリア条約の交渉・調印場所となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…教会堂ともいう。聖堂のうち,司教座(カテドラcathedra)の置かれたものをとくに司教座聖堂または大聖堂と呼び,フランス語でカテドラルcathédrale,イタリア語でドゥオモduomo,ドイツ語でドームDomまたはミュンスターMünsterという。教会教会堂建築(2)日本で,孔子をまつった建物,すなわち孔子廟を聖堂(または聖廟)と呼ぶ。…
…教会堂ともいう。聖堂のうち,司教座(カテドラcathedra)の置かれたものをとくに司教座聖堂または大聖堂と呼び,フランス語でカテドラルcathédrale,イタリア語でドゥオモduomo,ドイツ語でドームDomまたはミュンスターMünsterという。教会教会堂建築(2)日本で,孔子をまつった建物,すなわち孔子廟を聖堂(または聖廟)と呼ぶ。…
※「ミュンスター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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