ドイツ北西部,ニーダーザクセン州の都市。人口16万4539(1999)。トイトブルクの森とウィーエン山地に挟まれた盆地にある。ヨーロッパの東西交通の要衝である,ハーゼHase川の渡河地点にあった。カール大帝がザクセン人の居住地であったトレチュウィチTrecwithiを司教所在地としてザクセン地方伝道の拠点とし,ここから9世紀以来司教による市場特権の保護のもとで,商人定住地域が発達していった。オスナブリュックの司教座聖堂参事会Domkapitelと騎士層は司教区のなかで大きな政治的位置を占めていたが,シュタウフェン朝時代にはフリードリヒ1世から市場建設の特権を得て(1171),市民の共同体は司教の権力から独立して自らの都市法をもつにいたった。フランドルとバルト海の間の交易の仲介地点として,また周辺農村の亜麻布生産やリンネル生産を背景として,オスナブリュックは13世紀には経済的にも躍進しハンザ同盟に加盟した。三十年戦争のなかで1633年にはオスナブリュックはスウェーデン軍に占領され,1648年のウェストファリア条約はオスナブリュックの市参事会堂で締結され,この町を一躍有名にした。オスナブリュックの市民共同体は司教権力からの自由を求めつづけ,帝国直属都市になろうと努力していたが,実現にはいたらなかった。しかし17世紀にいたるまで,この町はほとんど帝国直属都市と同じような位置をもちつづけることができた。18世紀の後半にはJ.メーザーが事実上この町の行政の責任者となり,その体験のなかから《愛国者の幻想》や《オスナブリュック史》が生まれた。19世紀にはシュテューベCarl Bertram Stüve(1798-1872)が市長となり,ハノーファー地区の農民解放に尽くし,メーザーの《オスナブリュック史》の後編を書いている。現在では織物業,金属工業の中心地として,ルール地方と運河で結ばれ,ハンザの伝統をふまえて商業も盛んに営まれている。
執筆者:阿部 謹也
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ドイツ北西部、ニーダーザクセン州の行政中心都市。人口16万4100(2000)。南北を低い丘陵地に挟まれた位置にあるが、ルール工業地帯とハンブルクとを結ぶ幹線鉄道とアウトバーンに接し、ミッテルラント運河からの支線運河が都心近くに延びるなど、交通の要地である。市街地は19世紀なかばまで城壁に囲まれていた新市街および旧市街と、その後その外に発展した部分とからなり、旧市街と新市街の中間あたりが都心である。ウェーザー・エムス県県庁のほか、官公庁、博物館その他の文化施設が多い。工業は、市域北西部の石炭と鉄鉱石を利用して発達した鉄鋼業のほか、繊維、機械、製紙などが盛んである。第二次世界大戦で戦災を受けたが、旧市街のロマネスク様式の司教座聖堂をはじめ、古い教会、市庁舎、一部の市民家屋が昔のままに再建され、静かな歴史的都市の雰囲気を保持している。
[齋藤光格]
オスナブリュックの名が歴史に登場するのは、カール大帝の時代に司教座の所在地とされてからである。以後ドイツ北辺のキリスト教化の一拠点の役割を果たすとともに、889年には市場を開く権利を認められて、商業的にも発展し、13世紀以後はハンザ同盟に属して、フランドルと北海沿岸との通商の中継地として重要な役割を果たした。この商業的発展とともに市は大幅の自治権を獲得して、17世紀に至るまで帝国都市に等しい地位を維持した。しかしこの地をとくに著名にしたのは、三十年戦争を終結させたウェストファリア講和会議であり、ミュンスターにカトリック諸国の代表が集まったのと並行して、オスナブリュックでは1644年以後プロテスタント諸国と皇帝の代表が講和の交渉を行い、1648年になってウェストファリア条約が締結された。1802年ハノーバー領に、06年プロイセン領に併合された。
[中村賢二郎]
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