エセックス(読み)えせっくす(英語表記)Robert Devereux, 2nd Earl of Essex

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エセックス」の意味・わかりやすい解説

エセックス(イギリス)
えせっくす
Essex

イギリス、イングランド南東部、テムズ河口の北岸一帯を占めるカウンティ(県)。面積3469平方キロメートル、人口131万0922(2001)。県都はチェルムスフォード。1998年サウセンド・オン・シー、サーロックの2地区がユニタリー・オーソリティー(一層制地方自治体)として分離した。ほぼ平坦(へいたん)な低地に位置し、沿岸部には沼沢地が多い。最高点でも100メートルを若干上回る程度である。第一の産業は農牧業で、穀物、ビート(テンサイ)、ジャガイモロンドン市場向けの野菜の生産が盛ん。酪農も発達している。テムズ川の北岸沿いには工業地区、港湾地区が並ぶ。もっとも下流のテムズヘブンとキャンベイ島には石油基地と精油所が、その上流のティルベリーには大きなドックがあってロンドンの外港の役割を果たしている。

[久保田武]

歴史

西暦紀元以前にブリトン人のトリノバンテス王国があったが、1世紀初めに、南東イングランドを支配していたカツベラウニ王国(ベルギー系)のクノベリヌス王によって併合され、コルチェスターが都とされた。ローマ皇帝クラウディウスは、ブリタニア遠征のとき、44年コルチェスターを攻略してブリトン諸種族の忠誠を受け、コルチェスターはコロニア(植民市)として経営された。アングロ・サクソン人の侵入の時代に、「東サクソンの地」を意味してエセックスとよばれ、七王国の一つエセックス王国が創設されたが、7世紀初頭のサエベルフト王以前の異教王は不明である。9世紀初頭のシゲレッド王を最後に、ウェセックス王国によって統一された。その後デーン人の侵入を受けるが、991年にノルウェー王オーラフが東海岸モールドンに大挙来襲したときはエセックス伯ビルフトノースが善戦した。その際カンタベリー大司教シゲリックが1ハイド(土地面積の単位)につき2シリングを集めてオーラフ王を買収した。デーンゲルド(デーン人侵入に備えるための地租)徴収慣行は、このときに始まる。12世紀中ごろ、スティーブンStephen王(1097?―1154、在位1135~1154)とマティルダMatilda(1102―1167)の内戦のとき、ジェフリー・ド・マンドビルが出てエセックス伯となった。彼はその後スティーブン、マティルダの双方から官職を得て、ロンドンを含む東部イングランドに権勢を振るった。1381年の農民一揆(いっき)のときには、予言者ジョン・ボールがコルチェスターを中心にエセックス農民を指導した。中世末には毛織物工業が栄えており、ピューリタン革命のときには議会派が多かったが、コルチェスター城は王党派に加担して長く抵抗した。

[富沢霊岸]


エセックス(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex)
えせっくす
Robert Devereux, 2nd Earl of Essex
(1566―1601)

イギリスの廷臣、軍人。初代エセックス伯の長男。1586年オランダでスペイン軍と戦い、勇名をはせ、翌年主馬頭に任じられて、継父レスター伯にかわってエリザベス1世の晩年の寵臣(ちょうしん)となる。フランスでプロテスタントを支援して戦い、ドレーク、ローリーらとともに対スペイン強硬路線を支持し、96年カディスに遠征して占領したが、アゾレスでのスペイン宝船襲撃には失敗。99年アイルランド総督に任ぜられたが、反乱を鎮圧できず、女王の意向に反して休戦し、職務を放棄して帰国したため、禁固になった。ロンドンの民衆をたきつけ女王への反乱を企てて成らず、1601年2月25日斬首(ざんしゅ)刑となった。

[今井 宏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エセックス」の意味・わかりやすい解説

エセックス(伯家)
エセックス[はくけ]
Essex, Earls of

イギリスの貴族の家柄。 1135年頃スティーブン王がジェフリー・ド・マンデビル (1144没) に伯爵を授けたのが最初。彼はロンドン塔管理長官として,王とマティルダとの争いに際して双方に味方し,双方を裏切って,最後はスティーブンと戦って戦傷死。爵位は子孫に継承されたが,13世紀初め断絶。その後は再興されてはとだえたのち,16世紀後半ウォルター・デブルーが初代エセックス (伯)に叙せられてデブルー系の伯家を興し,3代まで続いた。王政復古後の 1661年,アーサー・ケーペル (1631~83) が伯爵に叙せられ,7番目のエセックス伯家を興した。彼は清教徒革命中は国王軍の軍人として戦ったが,チャールズ2世の専制的・旧教主義的政治には反対し,72年アイルランド総督に任命されたが,国王側近貴族たちの反感を買って,77年解任された。 80年には初代シャフツベリー (伯)とともに王位継承排除法案を提出し,創設期のホイッグ党の指導者の一人になった。 82年モンマス (公)擁立の陰謀に加わったためロンドン塔に投獄され,翌年7月獄中でのどを切って自殺。一説には宮廷派による殺害ともされる。しかし爵位はその子孫が継承して現在にいたっている。

エセックス(伯)
エセックス[はく]
Essex, Robert Devereux, 2nd Earl of

[生]1567.11.10. ネザーウッド
[没]1601.2.25. ロンドン
イギリスの貴族。初代エセックス伯の長男。エリザベス1世の寵臣。オランダ,フランスに新教徒援助のため出征,1596年ウォルター・ローリーらと遠征艦隊を組織してスペインのカディスを占領。1597年スペインの財宝船が逃げ込んだアゾレス諸島の遠征に赴いたが失敗。1599年アイルランド総督に就任。ティローン伯ヒュー・オニールの反乱鎮圧に失敗して無断で帰国,女王の寵を失い,1601年反乱を企て,失敗して処刑された。

エセックス(伯)
エセックス[はく]
Essex, Robert Devereux, 3rd Earl of

[生]1591.1. ロンドン
[没]1646.9.14. ロンドン
イギリスの貴族,軍人。2代伯の子。 1604年家名を回復。「権利請願」以来議会側の主張を支持。清教徒革命初期に議会軍司令官としてエッジヒルの戦いなどで指揮したが,44年戦いに敗れ,翌年辞職。

エセックス(伯)
エセックス[はく]
Essex, Walter Devereux, 1st Earl of

[生]1541.9.16. ウェールズ,カーマーセン
[没]1576.9.22. ダブリン
イギリスの貴族,軍人。 1569年の北部貴族の反乱鎮圧の功績によって 72年エセックス伯を授けられた。 73年以降アイルランドのアルスター地方の征服を企て,婦女子も皆殺しにする残忍非道なやり方で武力制圧を進めたが,結局失敗に終り,75年召還された。

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