オイレンブルク(英語表記)Eulenburg, Botho, Graf zu

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オイレンブルク」の意味・わかりやすい解説

オイレンブルク
Eulenburg, Friedrich Albrecht, Graf zu

[生]1815.6.29. ケーニヒスベルク
[没]1881.2.4. シェーネベルク
プロシア政治家。遣日使節。ナポレオン解放戦争の功により鉄十字勲章をプロシア王から受けたフリードリヒ・レオポルト伯の子。ケーニヒスベルクとベルリンで法律学,政治学を学び,1835年司法官となり,各地に在勤,44年行政官となり,48年大蔵省,49年内務省につとめ,52年以降外交官に転じ,アントウェルペン総領事となり,59年ワルシャワ総領事に任命されたが,任地におもむく前に東アジア遠征隊の全権公使に起用された。 60年5月 13日ベルリンを出発し,シンガポールで遠征隊を編成し,同年9月4日 (万延1年7月 19日) 品川に到着,江戸でアメリカ公使 T.ハリス斡旋により,H.ヒュースケン通訳として,村垣範正ら外国奉行と交渉の結果,61年1月 24日 (万延1年 12月 14日) 芝赤羽根接遇所において日普修好通商航海条約締結した。この条約はプロシアとしては関税同盟諸国の名において締結する意図であったが,プロシア1国のみのものとなり,また日本側は,江戸,大坂,兵庫,新潟の開市開港の条項を除いて締結に同意した。オイレンブルクは翌 62年北京において清国とも条約を締結,バンコク経由で帰国。しばらく外務省にいたが,この年 12月ビスマルク内閣成立にあたり内務大臣に抜擢され,議会の攻撃から政府と国王権威を守り,とりわけ 72年以後行政改革に従事したが,ビスマルクと意見が合わず,77年病気を理由に休職,翌3月政界を退いた。著書に『東アジア遠征記』『政界メモワール』『演説集』がある。

オイレンブルク
Eulenburg (und Hertefeld), Philipp, Fürst zu

[生]1847.2.12. ケーニヒスベルク
[没]1921.9.17. リーベンベルク
ドイツの外交官。 1877年より外交畑に入り,94~1902年ウィーン駐在大使。また 1886年より皇帝ウィルヘルム2世の側近として,その気まぐれな対外政策をしばしばいさめた。友人 B.ビューローの帝国宰相就任にも力があったが,芸術家肌で真の政治家ではなく,1902年以後は引退

オイレンブルク
Eulenburg, Botho, Graf zu

[生]1831.7.31. バルテンシュタイン近郊
[没]1912.11.5. ベルリン
ドイツの政治家。プロシアの古いユンカー家門の出。 1878年プロシア内相として社会主義者鎮圧法制定尽力。 92~94年 L.カプリビ後任としてプロシア首相となった。

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