フランスの探検家。ヨーロッパ人として初めて,アフリカ内陸の幻の都トンブクトゥに到達して生還した。貧しいパン屋の息子として生まれ,早く母を失い,アルコール中毒の上に盗みぐせのあった父も獄死して,11歳のとき孤児となった。靴職人の見習いをさせられたが,この仕事をきらい,友だちとも遊ばず,何か世間を驚かすようなことをしたいと考えた。当時ヨーロッパ人にとって謎の黄金の都だったトンブクトゥ一番乗りの夢も,この頃からはぐくまれた。17歳のとき,わずかの金をもって単身アフリカへ初めて渡った。さまざまな苦難に耐えて金を稼いだ後の1828年,イスラム教徒を装って宿願のトンブクトゥ入りを果たした。しかし目のあたりにしたのは,すでに往年の栄華の失せた,みすぼらしい泥小屋の集落にすぎなかった。だが幻滅のうちにも2週間の滞在中,彼はこの町についてのくわしい観察を書きとどめ,帰国後,フランス地理学会の賞金を受け,探検記を出版した。
→アフリカ探検
執筆者:川田 順造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
陳情書と訳す。正確にはCahiers de doléances。フランス革命前の旧制度における民意代表機関である、三部会への代表を選出するにあたって、各選挙区ごとの各身分(僧侶(そうりょ)、貴族、第三身分=平民)ごとに陳情をまとめて、最終的には各州の代表に託した文書をいう。したがって代表は三部会においてカイエの内容を実現すべく行動すべきことが要求されるが、その強制力がどれほどのものかに関しては、諸説がある。とくに注目されるカイエは、いうまでもなく1789年の三部会選挙の際のもので、革命勃発(ぼっぱつ)にあたってのフランス国民の政治意識ないし要求がいかなるものかを探るのに不可欠のデータである。
[樋口謹一]
1799~1838
ヨーロッパ人として初めてトンブクトゥから生還し,記録を残したフランス人探検家。貧しい境遇のなかでトンブクトゥ探検の夢をふくらませ,1827年4月,現ギニアからアフリカに入り,ムスリムを装い,ジュラ商人の隊商に加わって,翌年トンブクトゥ訪問を果たし,その凋落した情景を記録した。サハラを縦断してフランスに帰還したあと,英語で探検記を発表。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…恋愛すら心的現象と見なしそのいっさいを数学的に管理することで自己を透明で剛直な存在へと仕立てあげ危機から脱出しようと決意。1894年以後パリに定住し心的現象の観察と分析のため覚書を取り始める(これは生涯つづけられ,彼の最高の作品とも見なしうる3万ページもの《カイエCahiers》となる)。また自己の理想像をめぐって《レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説》(1895),小説《テスト氏との一夜La soirée avec Monsieur Teste》(1896)を書くが,しだいに文学から遠ざかり自分だけのための思索にふける。…
※「カイェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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