改訂新版 世界大百科事典 「カトリック運動」の意味・わかりやすい解説
カトリック運動 (カトリックうんどう)
movimento cattolico
イタリア史の概念で,その定義には諸説があるが,ここでは第2次大戦後発達したカトリック左派史学の見解にしたがう。運動成立の歴史的背景となったのは,フランス革命以降の教会諸特権の廃止と政教分離の進行,また,それに対応する教会機構の変容,すなわち各地の司教権力の衰退と教皇への中央集権化の動きである。しかし,より直接的な契機となったのは,1848年における教皇ピウス9世のイタリア独立戦争からの脱落とその後の急速な反動化だった。彼は64年《謬説表Sillabus》により合理主義や自由主義を排撃し,70年の第1バチカン公会議では教皇不可謬性を教義化さえした。さらに,同年イタリア軍がローマを占領し,教皇世俗権が消滅すると,教皇の反動的姿勢は決定的となった。
カトリック運動とは,こうした危機的状況のなかで教皇と教会の諸権利の回復を目的とし,宗教的のみならず政治的にも活動した平信徒(非聖職者)主体の組織的運動のことをさす。具体的には〈大会・委員会活動団Opera dei congressi e dei comitati〉のことである。これは,74年ベネチアで開かれた第1回カトリック全国大会において,カトリック青年会を中心に結成された。翌75年には大会招集と決議執行を任務とする常任委員会を設置し,既存の教会組織に立脚した地方,司教区,教区の各級委員会からなるピラミッド型組織の建設に着手した。〈活動団〉の根本原則は,イタリア国家への非妥協であった。具体的には,イタリア王国という既成事実の正統性を否認した教皇庁が1871年発した国政選挙棄権命令を遵守することであった。このためイタリアでは,71年に中央党を結成したドイツなどとくらべ,カトリック政党の成立は約半世紀も遅れた。他方,地方選挙への参加は積極的だった。というのも〈法の国〉と〈現実の国〉つまり制度国家と市民社会を峻別し,後者への浸透を自覚的に追求したからである。なかでも地方分権論と家族の教育権は重要な論点となった。また,家父長的・慈善的性格を残しながらも,社会問題への関心も強めていった。
〈活動団〉が最盛期をむかえるのは,教皇レオ13世即位(1878)後のことであった。その最初の10年間は国教関係の正常化をめざす〈妥協派〉が台頭し,それは自由主義穏健派との〈国民保守〉政党結成の試みがあった87年にピークに達した。しかし,これが失敗し,同年クリスピ政権が誕生して反教権主義世論が強くなると〈非妥協派〉がもりかえした。その指導者,ベネチアの弁護士G.B.パガヌッツィは,89年常任委員会議長になると組織のたてなおしと中央統制の強化に努めた。また,おりからの農業危機に苦しむ北イタリアの農民を農村金庫,協同組合などによって組織化し,大衆基盤を持つことにも成功した。それにともなってカトリック社会理論の研究も盛んとなり,ピサ大学のG.トニオーロは89年〈カトリック社会研究連合〉を設立した。そして,こうした動きは,レオ13世の回勅《レルム・ノウァルム》(1891)により社会カトリシズムの名で公認されることになった。他方,この回勅は,より根底的な社会革新を求めるキリスト教民主主義にも強いはずみをつけ,この潮流は〈活動団〉の青年層にも多くの支持者を見いだした。そして,その指導者の司祭R.ムルリは,しだいに〈非妥協派〉と敵対するようになった。とくに98年ディ・ルディニ内閣による弾圧にたいして〈非妥協派〉が一挙に穏健化したことにムルリ派は強く反発し,〈活動団〉からの自立と新党結成を目ざすようになった。レオ13世は分裂回避に努力したが,ムルリ派の攻勢は続き,最後となった第19回大会(1903)に勝利を収めるまでになった。しかし,同年即位したピウス10世は重大な方針転換を行った。つまり,1904年〈活動団〉の解散を命じるとともに,ムルリも追放したのである。ピウス10世の選択は〈教権・穏健主義〉と呼ばれ,国政選挙棄権命令を事実上撤回し,社会主義と対抗するための自由主義派との選挙協力を認めた。ここに自由主義国家への非妥協を大原則とするカトリック運動の一サイクルは終わった。そして,06年に平信徒組織は〈人民連合〉〈社会経済連合〉〈選挙連合〉に再編され,〈カトリック・アクションAzione Cattolica〉として司教監督下におかれた。この状況下では労働組合だけが北イタリアの繊維産業を中心に発展した(1918年〈イタリア勤労者同盟〉に結集)が,政党結成の動きは封じられたままだった。しかし,第1次大戦はカトリック教徒の国家への統合と教皇庁の指導からの自立傾向を促した。こうして19年,シチリアの司祭L.ストゥルツォによって初めてのカトリック政党〈イタリア人民党Partito Popolare Italiano〉が結成され,名実ともにカトリック運動の役割は終わることになったのである。
執筆者:村上 信一郎
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