カメロン(読み)かめろん(英語表記)Julia Margaret Cameron

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カメロン」の意味・わかりやすい解説

カメロン
Cameron, Verney Lovett

[生]1844.7.1. ドーセット,ラディポール
[没]1894.3.27. ベッドフォードシャー,レイトンバザード近郊
イギリス探検家。キャメロンとも表記される。ヨーロッパ人として初めて赤道下のアフリカを横断した。 D.リビングストン消息を求めるとともに独自の探検を行うため,1872年王立地理院が派遣した探検隊の一員に選ばれた。ザンジバル出発後リビングストンの死が判明したので,タンガニーカ湖へ行き湖の南部を探検。次いでコンゴ川ザンベジ川の源流地帯を踏査,後者の源を見出した。 75年 11月7日ついにアフリカ西岸ベンゲラ (現アンゴラ) 付近に到達。 77年『アフリカ横断』 Across Africaを著わした。『黄金を求めて黄金海岸へ』 To the Gold Coast for Gold (1883) は R.バートンとの共著

カメロン[ロキール]
Cameron of Lochiel, Sir Ewan

[生]1629.2.
[没]1719.2.
スコットランドのカメロン族の族長。キャメロンとも表記される。清教徒革命期には,1652年より O.クロムウェルの共和制政府に反抗し,60年 G.マンクとともにロンドンに南下し,チャールズ2世を王に迎えた。 81年ナイト爵に叙せられた。名誉革命後,J.グレアムを支持してキリクランキーの戦い参加したが,その後は引退し,92年ウィリアム3世に忠誠を誓った。

カメロン
Cameron(Camero), John

[生]1580. グラスゴー
[没]1625
スコットランドに生れ,フランスで活躍したカルバン派神学者。グラスゴー大学卒業後フランスに渡り,ソミュール神学校教授 (1618) ,グラスゴー大学学長 (22) ,モントーバン大学神学教授 (24) を歴任。人道主義的色彩の濃いカルバン主義に立ち,契約における神と人間との関係を強調する契約神学の先駆者とみなされる。その穏健な主張は,急進的カルバン主義者の反対を受け,そのため路上で刺された。主著『恩寵と自由意志論』 These de gratia et libro arbitrio (18) 。

カメロン
Cameron, Richard

[生]1648頃
[没]1680.7.22.
スコットランド教会の分離小派であるカメロン派創始者。スコットランド教会で長老制を守る契約 covenantの原理を信奉するカベナンターを組織し,その指導者となった。チャールズ2世が契約を守らなかったため,国王を廃位する旨のサンクアール宣言を発し (1680) ,王軍と戦って戦死した。

カメロン
Cameron, Julia Margaret

[生]1815.6.11. カルカッタ
[没]1879.1.26. スリランカ,カルータラ
インド出身のイギリスの女性写真家。 42歳の誕生日に娘から贈られたカメラで撮影を始める。作品にはビクトリア朝時代の著名な芸術家,ワーズワス,ロングフェロー,テニソンなどの肖像写真が多く,クローズアップを多用し,修整や引き伸ばしといった技巧を退けて人物の個性を躍動的に表現した。

カメロン
Cameron, James Donald

[生]1833.5.14. ペンシルバニア,ミドルトン
[没]1918.8.30. ランカスター
アメリカの政治家。キャメロンとも表記される。ペンシルバニア州を地盤とする銀行家,政治家の S.カメロン (1799~1889) の子で,父を継いでペンシルバニア州の共和党組織の指導者となる。 1876~77年陸軍長官,77~97年連邦上院議員。

カメロン
Cameron, Donald

[生]1695. インバーネス,ロキール
[没]1748
スコットランドのカメロン族の長。キャメロンとも表記される。心ならずもジャコバイトになり,「四十五年の反乱」に参加,カロデンの戦いで負傷し,フランスに亡命。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カメロン」の意味・わかりやすい解説

カメロン
かめろん
Julia Margaret Cameron
(1815―1879)

写真初期のイギリスの女流写真家。イギリス外交官の娘としてインドのカルカッタ(現コルカタ)に生まれ、当地でイギリス人判事チャールス・ヘイ・カメロンと結婚。その後ロンドンに移り、社交界で活躍するが、50歳ごろから趣味として、当時の最先端技術であった写真を始める。彼女が撮影の対象としたのは、社交界で交遊のあった著名人が多く、またその技法は、気どりのない表情をクローズ・アップで撮るのが特徴であった。初期の作風は絵画のラファエッロ前派の影響が強く、ルネサンス絵画風のものであったが、今日評価が高いのはポートレート作品で、そのモデルには、ハーシェル卿(きょう)、カーライル卿、ダーウィンなどの学者や、ワーズワース、テニスン、ビアズリーなどの芸術家が含まれている。

[平木 収]

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