ダーウィン(読み)だーうぃん(英語表記)Charles Robert Darwin

デジタル大辞泉 「ダーウィン」の意味・読み・例文・類語

ダーウィン(Darwin)

オーストラリア北部、ノーザンテリトリーの都市。同準州の行政中心地。チモール海に面し、港湾をもつ。国際航空路の要地。旧称パーマストン。博物学者C=R=ダーウィンにちなみ改称。第二次大戦中、連合軍の拠点が置かれ、日本軍による空襲を受けた。カカドゥ国立公園リッチフィールド国立公園への観光拠点。

ダーウィン(Charles Robert Darwin)

[1809~1882]英国の博物学者。進化論を提唱。1831年から5年にわたりビーグル号の世界一周航海に加わり、動植物や地質を調査。1858年にA=R=ウォーレスと連名で進化論について発表。翌年「種の起源」を刊行。ほかに著「人間の由来」「ビーグル号航海記」など。

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共同通信ニュース用語解説 「ダーウィン」の解説

ダーウィン

1809~82年。イギリスの博物学者、生物学者。生物は、生息する環境かんきょうてきしたものが生き残り、さらに新しい種が生まれるという「進化論しんかろん」をとなえた。南半球の自然の観察などをもとに、その理論をまとめた「種の起源きげん」を出版しゅっぱんした。生物は神様がつくったものという、それまでの考え方を大きく変える説となった。

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精選版 日本国語大辞典 「ダーウィン」の意味・読み・例文・類語

ダーウィン

  1. [ 一 ] ( Erasmus Darwin エラスムス━ ) イギリスの医師、博物学者。チャールズ=ダーウィンの祖父。生物進化論の先駆者の一人。主著「ズーノミア」。(一七三一‐一八〇二
  2. [ 二 ] ( Charles Robert Darwin チャールズ=ロバート━ ) イギリスの博物学者、生物学者。自然選択説による進化論を提唱し、生物学ばかりでなく一般思想界にも多大な影響を与えた。測量船ビーグル号で世界を周航し、動植物、地質などの基礎調査を行なった。主著「種の起原」「ビーグル号航海記」。(一八〇九‐八二
  3. [ 三 ] ( George Howard Darwin ジョージ=ハワード━ ) イギリスの天文学者。チャールズ=ダーウィンの二男。潮の満干の研究から、地球と月との体系の起源と進化を考察。主著「潮汐ならびに太陽系における類似現象」。(一八四五‐一九一二

ダーウィン

  1. ( Darwin ) オーストラリア北部の港湾都市。一八七二年電信基地として建設され、第二次世界大戦中に軍港として発展した。国際航空路の要地で、大陸横断道路の起点。白蝶貝採取の基地としても知られる。旧名パーマストン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン(Charles Robert Darwin)
だーうぃん
Charles Robert Darwin
(1809―1882)

進化論で著名なイギリスの生物学者。イングランドのシルスベリーに2月12日に生まれる。祖父は進化論の先駆者であるエラズマス、父ロバートRobert Waring Darwin(1766―1848)は医者であった。母は陶芸家ウェッジウッドの娘、また彼もウェッジウッド家の従妹(いとこ)と結婚している。富裕な文化水準も高い家庭環境に育った。1825年にエジンバラ大学医学部に入学したが、医者になる意志がなく中途退学し、ケンブリッジ大学神学部に転学して牧師になろうとした。しかし彼の興味はもっぱら博物学にあって、植物や動物の野外採集や地質の調査旅行を行っていた。1831年に卒業したとき、海軍の測量艦ビーグル号の世界一周の航海に博物学者として乗船することになった。航海は5年に及び、主として南アメリカの海岸、そのほか南太平洋諸島やオーストラリアを周航し、各地の動植物や地質を調査することができた。この航海はダーウィンの一生における重大なできごとであって、これが彼のその後の進路を決定した。つまりこのときの観察から進化についての確信が得られ、これが後のダーウィンの進化論に結実する。なおダーウィンは航海中にC・ライエルの『地質学原理Principles of Geologyを読み、地質の変化について啓蒙(けいもう)を受けた。帰国後、生物の種(しゅ)の変化に関する資料を収集し整理する仕事にとりかかり、種の変化の原因について探求した。初めはケンブリッジ、ついでロンドンに住んでいたが、健康を害し、さいわい父に資産があったので、1842年ケント州ダウンに居を構え、家族の庇護(ひご)のもとに隠遁(いんとん)生活の状態で思考と著作に専念した。

 ダーウィンはビーグル号の航海によって知りえた、南アメリカに生息する動物の分布と、同大陸に現在生活している生物と過去の生物との地質学上の関係を示す確かな事実が、当時は神秘的と考えられていた種の起原の問題に多少の光をあてるのではないかと『種の起原』の序言で述べている。たとえばアルマジロによく似た大形の化石動物を発見し、それが死滅した原因と、現在の生物との類似の原因について疑問をもった。またこのような時間的なことばかりでなく、空間的にも、たとえばガラパゴス諸島の動物のほとんどが一様に南アメリカ的な特徴をもっているが、それらが、わずかな距離しか離れていない物理的条件の同じ島ですこしずつ違った形をしていること、つまり漸進的に変化していることに注目した。鳥類のフィンチで嘴(くちばし)が非常に厚いものから薄く鋭いものまで一連の差異があることを知った「ダーウィンフィンチ」がその一例である。

 ビーグル号航海の経験はダーウィンの脳裏から離れず、帰国後も種の起原や変化について考え続けた。その結果、生物は多産であり、過剰繁殖を行うために生存競争がおこる。環境に適した有利な変異は保存され、不利な変異をおこした生物は絶滅すると考えた。この過程が自然選択であって、その結果として適者生存になる。これがダーウィンの進化論である。この考えをまとめ、1844年には草稿ができあがった。しかしライエルの忠告によって、さらに大部のものに改稿し始めた。ところが1858年に、マレー半島にいたA・R・ウォーレスから、彼と同じ自然選択による種の起原に関する論文が送られてきたので、これを機会に彼とウォーレスの論文をいっしょにして連名でロンドンのリンネ学会で発表した。ダーウィン単独の論文はその翌年の1859年に初めの予定より縮小した形で『種の起原』として出版された。ビーグル号航海から帰国後23年が経過している。『種の起原』が出版された当時は、生物はすべて全能の神が創造したものであって、古来不変であるというキリスト教の『旧約聖書』「創世記」の思想が一般には信じられていた。したがって、キリスト教の教義に対してまっこうから異議を唱え、生物の進化に関する膨大かつ科学的な証拠とともに、進化の原因について解明したダーウィンの学説は生物学上のみならず一般の思想界に強烈な影響を与えた。『種の起原』では、人間に関してはほんのひとことしか書かれなかったが、やがて1871年になって『人間の由来』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sexが出版され、人間も他の生物と同じ法則に従って進化してきたことが明らかにされた。進化論の発表以後、教会その他から猛烈な批判がおこったが、友人のT・H・ハクスリーやドイツのE・H・ヘッケルらが彼の説を支持し論戦に参加してダーウィンを擁護し、進化論の普及に努力した。ダーウィンの進化要因論である自然選択説に関してはその後も生物学上の論争が現在までも続いているが、生物の進化の事実は現在では生物学上の常識になっている。ダーウィンは『種の起原』出版後も研究を続け、多くの著作を残している。1882年4月19日ダウンにて73歳で死去、ウェストミンスター寺院に埋葬された。

[宇佐美正一郎 2015年7月21日]

『八杉竜一著『ダーウィンの生涯』(岩波新書)』


ダーウィン(Erasmus Darwin)
だーうぃん
Erasmus Darwin
(1731―1802)

イギリスの博物学者、医師、詩人。C・ダーウィン、F・ゴルトンの祖父。ケンブリッジ、エジンバラ両大学で医学を学び、1755年学位を取得。リッチフィールド、ダービーで医師を開業。当時の啓蒙(けいもう)的知識人であり、ルソーやプリーストリーらとも交わり、1766年ルナ・ソサエティー創立にも関与した。ビュフォンの影響を受け、生物進化の考えを抱き、動物の発生については前成説を否定、これらの考えを『ズーノミア』Zoonomia2巻(1794、1796)で明らかにした。C・ダーウィンはこの祖父の影響を受けたといわれる。ほかに『植物の園』The Botanic Garden(1789)、『自然の殿堂』Temple of Nature(1803)などがある。

[佐藤七郎]


ダーウィン(George Howard Darwin)
だーうぃん
Sir George Howard Darwin
(1845―1912)

イギリスの天文学者。潮汐論(ちょうせきろん)の権威。生物進化論のダーウィンの二男。1868年ケンブリッジ大学を優等で卒業後、特別研究員に選抜され、1883年同大学の天文学教授に就任、以降終身、研究と教育と著述に業績をあげ、1892年王立協会金賞を受け、1899年同協会会長となり、1905年ナイトに叙せられ、1912年国際数学者会議総裁を務めた。主要研究は地球潮汐の調和解析、潮汐摩擦の影響推論、三体問題における周期軌道の計算、回転流体の平衡形状の探究などである。これらの数理理論を地球‐月系や連星系に応用してその起源と進化を克明に考察した。主著は『潮汐ならびに太陽系における類似現象』(1898)。

[島村福太郎]


ダーウィン(オーストラリア)
だーうぃん
Darwin

オーストラリア北部、ノーザン・テリトリーの行政中心地、港湾都市。人口10万9419(2001)。熱帯サバナ気候で、平均気温は最暖月(11月)29.3℃、最寒月(7月)24.9℃、年降水量は1827ミリメートル。5~10月が乾期。同国北部の交通・通信の拠点で国際空港がある。1839年ビーグル号の測量技師ジョン・ストークスが来航し、生物学者ダーウィンにちなんで命名した。1869年入植、パーマストンPalmerstonと名づけられたが、1911年公式にダーウィンと改称。1872年アデレードとの間に大陸縦断電信線が敷設された。第二次世界大戦中に連合軍拠点となり、日本軍の空襲(1942)を受けた。1974年にサイクロンによる被害を受けた。

[谷内 達]

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百科事典マイペディア 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン

英国の博物学者で進化論の確立者。エディンバラ,ケンブリッジ両大学で医学や神学を学んだが,次第に博物学の研究に没頭。卒業後,英国海軍の測量船ビーグル号に博物学者として乗船。5年にわたって南半球を航海,動植物や地質を観測して《ビーグル号航海記》(1845年)を著した。またこの間に生物進化を確信するようになる。帰国後,家畜や栽培植物などを研究し,自然淘汰が進化の要因であるという結論に達する。同じ見解に立つウォーレスの論文の入手を機に1858年ロンドンのリンネ学会に自然淘汰説を発表。翌1859年《種の起原》を刊行し,近代的進化論を確立した。彼の学説,特に進化要因論はダーウィニズムといわれる。他に《家畜,栽培植物の変異》など著作が多い。
→関連項目オーエン大杉栄海洋探検ガラパゴス[諸島]機能主義グレーケリカーゴルトン自然主義社会ダーウィニズムゾラダーウィンダーウィンダーウィン海膨ダニレフスキー地質学原理チミリャーゼフネオ・ダーウィニズムハクスリーバーバンク比較解剖学フィッツロイヘッケルマイヤーヤコブセン

ダーウィン

オーストラリア北部,ティモール海に臨む港湾都市。ポート・ダーウィンとも。ノーザン・テリトリーの主都。空港があり,内陸部への道路,鉄道の起点。1869年創設。地名はC.ダーウィンにちなむ。1974年のサイクロンの襲撃で市街はほぼ全壊し,新たに建設された。2004年に同国中央部のアリス・スプリングズと結ぶ鉄道が開通し,南部のアデレードまでの縦貫鉄道が完成。12万585人(2011)。

ダーウィン

英国の医者,詩人。C.ダーウィンゴルトンの祖父。ケンブリッジ,エディンバラ両大学で医学を学び,《ゾーノミア》(1794年,1796年)などの散文詩で進化論的思想を述べる。

ダーウィン

英国の数理天文学者。C.ダーウィンの次男。1883年ケンブリッジ大学教授。潮汐(ちょうせき),地球の弾性,三体問題等理論的研究が多く,月が地球から分離したという月の起源論を展開。

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改訂新版 世界大百科事典 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン
Charles Robert Darwin
生没年:1809-82

イギリスの博物学者。自然淘汰による進化論を提出。著名な進化思想家E.ダーウィンを祖父とし,医者ダーウィンRobert Darwin(1766-1848)を父とする。母方は陶器製造で有名なウェッジウッド家。幼少年期より,昆虫採集,狩猟などに興味をもった。エジンバラ大学医学部に入学したが中途退学して,ケンブリッジ大学神学部に学ぶ。地質学,動物学に関心をもつ。A.vonフンボルトの《南アメリカ旅行記》に魅せられ,探検旅行の夢をもつ。卒業後,海軍の測量船ビーグル号に無給の博物学者として乗船(1831-36)し,C.ライエルの《地質学原理》を学びながら南半球各地の地質,動植物を観察した。《ビーグル号航海記》(1839),地質学的業績である《サンゴ礁の構造と分布》(1842)は,この航海の調査に基づく。

 航海中に訪れた南アメリカ大陸の種々の化石や現生の動物,ガラパゴス諸島の動植物の観察などから生物進化を強く印象づけられた。帰国後,これを理論化すべく,育種学的資料を集める。人為淘汰(選択)によって家畜や農作物の新しい品種がつくられることから,自然界では生存闘争が激しく,自然淘汰によって新種がつくられることを推論し,未発表のまま論文として残す。当時は進化思想に対して世間が寛容でなかったため,十分説得力のある著作を出すことが必要であると感じ,大部な著作《自然淘汰》をまとめようとした。しかし,執筆の途中,1858年,マレー諸島のテルナテにいたA.R.ウォーレスから生存闘争と自然淘汰の考えによる種の問題に関する論文が送付されてきたため,執筆は中止された。そして地質学者ライエル,植物学者フッカーJ.D.Hookerらのはからいでダーウィンの未発表論文の一部とアメリカの植物学者A.グレーへの手紙が,ウォーレスの論文とともにロンドンのリンネ学会で発表され,自然淘汰説がはじめて世に出た(1858)。

 一方,ダーウィンは大著《自然淘汰》の要約に着手し,進化論上の古典となった《種の起原》(1859)を出版したが,《自然淘汰》は未完のままに終わり,そのはじめの部分は《家畜と栽培植物の変異》(1868)となった。残りの部分が刊行されたのは死後100年近く経た1975年である。

 種の問題の前には分類学的業績《蔓脚(まんきやく)類》(1854)がある。《種の起原》には人間の問題は扱われていなかったが,T.H.ハクスリーの《自然界における人間の位置》(1863),ドイツでダーウィンの考えを普及したE.ヘッケルの《自然創造史》(1868)の出たあと,《人類の起源》(1871),《ヒトと動物の感情の表現》(1872)を著し,人間とそれ以外の動物の関連を論じた。晩年には植物学上の業績が多く,《食虫植物》《攀援(はんえん)植物の運動と習性》(ともに1875)などで,植物と動物の進化論上のつながりを探った。死の前年には,生態学的著作《ミミズの作用による腐植土の形成》がある。参考書としてはノラ・バーロウ編,八杉竜一ほか訳《ダーウィン自伝》(1972)。八杉竜一編《ダーウィン》(1977)。ド・ビア著,八杉貞雄訳《ダーウィンの生涯》(1978)。江上生子著《ダーウィン--人と思想》(1981)ほかがある。なお戦前に《ダーウィン選集》全6巻が出版され,戦後,これに別の著作を加えた《ダーウィン全集》が刊行された。
ダーウィニズム
執筆者:


ダーウィン
Darwin

オーストラリア,ノーザン・テリトリーの主都。人口11万1179(2005)。平均気温は最暖月(11月)29.6℃,最寒月(7月)25.1℃,年降水量は1536mmで,5~10月が乾季となる熱帯サバンナ気候である。同国北部の交通・通信の拠点で,港湾および国際空港がある。1839年,ビーグル号のストークスが来航し,科学者ダーウィンにちなみ命名した。69年に入植されパーマストンPalmerstonと名付けられたが,1911年に公式にダーウィンと改称された。1872年にアデレードとの間に陸上電信線を敷設。第2次世界大戦中は連合軍の拠点となり,日本軍の空襲を受けた(1942)。1974年,サイクロンの被害を受けた。
執筆者:


ダーウィン
George Howard Darwin
生没年:1845-1912

イギリスの天文学者。進化論で著名なC.ダーウィンの次男である。ケンブリッジ大学で天文学を専攻し,1868年に同学を卒業後,特別研究員を経て83年同学の天文学および実験物理学の教授となった。潮汐論,天体形状論,三体問題の周期解の研究などで多くの業績がある。とくに月が地球から分離したという月の起源論は歴史的に著名である。92年に王立天文学会の金牌を受賞し,99年には同会会長となった。主著に《潮汐》(1897)があり,また《科学論文集》全4巻(1907-11)が刊行されている。
執筆者:


ダーウィン
Erasmus Darwin
生没年:1731-1802

イギリスの医師で詩人,進化思想家。C.ダーウィンの祖父。発明の才もあり,リンネの紹介者,ルナ・ソサエティの創立メンバーとしても著名。著書《植物の園》(1789,91),《ゾーノミア》(1794,96),《自然の殿堂》(1803)に進化思想が現れている。フィラメント状の生命がかつて一度だけ海に生じて,漸次,種々の生物に発達したとし,G.L.L.deビュフォンの影響がうかがえる。詩作はロマン派詩人に影響を与えた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダーウィン」の意味・わかりやすい解説

ダーウィン
Darwin, Charles Robert

[生]1809.2.12. サロップ,シュルーズベリー
[没]1882.4.19. ダウン
イギリスの博物学者。『種の起原』を著わして生物進化の理論を確立した。 E.ダーウィンの孫。エディンバラ大学に入学する (1825) が,2年で退学,ケンブリッジ大学に入り直す (28) 。ここで植物学者の J.ヘンズローらに博物学を学ぶ。 1831年から海軍の『ビーグル』号に博物学者として乗組み,5年にわたって,太平洋,大西洋の島々,南アメリカ沿岸,ガラパゴス諸島などを訪れ,動植物相の観察や化石の採集,地質の研究などを行なった。彼は航海中に行なった諸観察から,種が変化する可能性を考えるようになり,37年よりそれに関するノートを書きはじめた。進化論の執筆を始めて (56) まもなく,R.ウォレスから彼の理論と同一内容の論文を受取り (58) ,C.ライエルらのはからいで業績の要約をリンネ学会で発表し (58) ,59年『種の起原』を出版した。ダーウィンの進化論は,彼以前の進化思想に比し,内容が科学的でしかもそれが豊富な実例によって裏づけられている点に特徴があり,強い説得力をもちえ,大きな反響を呼んだ。また『種の起原』は,環境への生物の適応を扱っており,生態学の出発点ともなっている。しかし一方で,ダーウィン自身 T.マルサスの『人口論』からの影響について述べており,また一般にその時代の自由放任主義 (レッセ・フェール) 理念の反映であるといわれることもある。進化論に対する宗教界からの攻撃には,T.ハクスリーが代って応戦した。ダーウィンは 71年『人間の由来』で,進化論を人間の起源にまで拡張した。以後,晩年は植物の運動に関する実験的研究を行い,その結果を『植物の運動力』 (80) などにまとめている。 20世紀に入って,ダーウィンの自然選択説とメンデル遺伝学とが組合わされて,現在の進化機構論が形成されている。

ダーウィン
Darwin, Erasmus

[生]1731.12.12. エルトン
[没]1802.4.18. ダービー
イギリスの医者,博物学者,詩人。 C.ダーウィンおよび優生学の創始者 F.ゴルトンの祖父。ケンブリッジ (1750~54) ,エディンバラ (54~56) 両大学に学んだのち,内科医を開業して成功。みずからの科学思想を詩に作って出版。『植物の園』 The Botanic Garden (92) ,『ズーノミア』 Zoonomia or the Laws of Organic Life (94~96) が代表作。特に後者は,進化思想を表わしたものとして名高い。動物は,そのおかれた環境に適応できるようにみずからをつくり変えると彼は考えたが,これは J.ラマルクの進化思想に共通した点を多く含み,C.ダーウィンの進化論の先駆をなすものとされている。

ダーウィン
Darwin, Sir George Howard

[生]1845.7.9. ケント,ダウン
[没]1912.12.7. ケンブリッジ
イギリスの天文学者。 C.ダーウィンの次男。ケンブリッジ大学に学び,同大学の天文学,実験哲学教授 (1883) 。 P.ラプラスケルビンらの理論を発展させ,地球-月系の運動における潮汐摩擦効果を明らかにし,月がかつて地球の一部から切り離されたものであると主張した (現在は誤りとみなされている) 。また数学理論に基づいて太陽系の進化を議論した。王立天文協会会長 (99) ,イギリス科学振興協会会長 (1905) をつとめ,1905年バス上級勲爵士に叙せられた。

ダーウィン
Darwin

オーストラリア,ノーザンテリトリーの行政中心地。アーネムランド北西端に位置し,ティモール海にのぞむ港湾都市で,パースからの沿岸航路の終点。 1911年まではパーマストンと呼ばれていたが,その後 C.ダーウィン (1838来航) にちなんで改名。シドニー,シンガポールを結ぶ国際空港もある。南東 500kmにあるラリマーまで鉄道が延び,南南東 1535kmのアリススプリングズと国道で結ばれる。ノーザンテリトリーの玄関として農牧産品,鉱産物が集散される。 74年 12月のサイクロンで大きな被害にあい,建物の大半が破壊され,人口が一時減少したが,復興した。人口6万 9809 (1991推計) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ダーウィン」の解説

ダーウィン
Charles Robert Darwin

1809~82

イギリスの生物学者。1831~36年測量艦「ビーグル号」に乗り込み,南半球の博物学的探検に従事。その間に生物の進化に想到した。そののち進化論を理論化し,59年有名な『種の起源』を刊行した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ダーウィン」の解説

ダーウィン
Charles Robert Darwin

1809〜82
イギリスの博物学者
1831年からビーグル号で南方諸地域をめぐり,動植物・鉱物の標本を採集。これをもとに自然淘汰・適者生存の進化論をたて,1859年『種の起源』として発表。この学説は自然科学・人文科学の両面にわたって大きな影響を与えた。

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367日誕生日大事典 「ダーウィン」の解説

ダーウィン

生年月日:1848年8月16日
イギリスの植物学者
1925年没

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世界大百科事典(旧版)内のダーウィンの言及

【ノーザン・テリトリー】より

アボリジニーが人口の約1/4を占める。主都はダーウィン。主産業は牧畜と鉱業。…

【遺伝学】より

…現在この分野では電離放射線や紫外線,さらには化学物質による遺伝子突然変異や染色体異常の誘発機構,これら変異原mutagenによるDNAの損傷とその修復の機構,変異原に対する感受性を修飾する遺伝的・環境的要因の解析,さらには変異原の育種的利用などが重要な問題となっている。
[集団遺伝学population genetics]
 C.ダーウィン(1859)は生物の進化が淘汰によることを示す多くの証拠を得たが,淘汰の対象となる変異の出現機構については明らかにできなかった。遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。…

【獲得形質】より

…下って18~19世紀のJ.B.deラマルクは彼の進化論を展開するにあたって獲得形質遺伝を肯定していて,キリンの首が長い理由を説明する際に採用した用不用説(使用する器官は発達し,不使用器官は退化する)は有名である。19世紀のC.ダーウィンやE.H.ヘッケルも肯定的立場にあった。とくにダーウィンは彼の遺伝理論パンゲン説を論ずる中でそのことを述べている。…

【ガラパゴス[諸島]】より

…1832年よりエクアドル領。1835年,C.ダーウィンがビーグル号でこの島を訪れ観察を行った。その成果は《ビーグル号航海記》や《種の起原》にとり入れられたため,この島は一躍有名となった。…

【屈性】より

…屈曲運動は刺激源に面する側とその反対側での生長の差によっておこり,刺激の種類に応じて屈光性phototropism,屈地性geotropism,屈熱性thermotropismなどに分けられる。屈光性の存在は,すでに1880年にC.ダーウィンがイネの子葉鞘(しようしよう)での観察にもとづいて指摘している。ウェントF.W.Wentは,アベナの子葉鞘の先端部で形成されたオーキシンが基部へ輸送される途中で片面を照射すると,光側のオーキシンの流れが影側へとそらされ,その結果として影側でのオーキシン濃度が増加し光側で減少することを明らかにした(1928)。…

【毛】より

… ヒトが無毛に近いことの理由づけは多彩である。C.ダーウィンはヒトがもと熱帯にいたから炎熱にさらされて毛を失ったとする説を紹介し,これでは頭髪を説明できないし,毛のないのはヒトに直接の利益とならないから自然淘汰ではないとする。彼は女性が男性より毛が少ないことから,体毛のないのは二次性徴の一つであり,まず女が体毛を失って後に男にも伝えられたと考えた。…

【形態学】より

…この潮流を背景にして,19世紀初めごろE.ジョフロア・サン・ティレールやG.L.C.F.D.キュビエらが動物界全体の比較解剖学を新しい科学として確立する。他方,このころラマルクにより,次いで19世紀中ごろC.ダーウィンによって生物進化論が創始され,これを転機として形態学と分類学は近代的な展開を見せることになる。この過程でE.H.ヘッケルは,対称性によってすべての動物の体制と外形を幾何学的に分析し,その種別によって動物界を分類しようとする形式的な比較形態学を構想して,これを基本形態学と呼んだ。…

【古生物学】より

…当時の研究では生物の歴史が大局的には前進的であることが示されていたが,漸進的変化による進化を証拠づける材料が化石の研究からはほとんど出てこなかった。ライエルの斉一説の影響下でC.ダーウィンが《種の起原》を著した当時(1859),化石上の証拠に採用された例はわずかにすぎない。しかし,彼の唱えた自然淘汰説を肯定するにせよ否定するにせよ,その後の古生物学はこの問題に取り組まざるをえなかった。…

【痕跡器官】より

…フランスのラマルクは《動物哲学》(1809)の中で,進化の要因としていわゆる用不用の説を述べ,ある器官が頻用されるのも廃用されるのも環境の影響によるとした。またC.ダーウィンは《種の起原》(1859)の中で独自の自然淘汰説を痕跡器官の起源に対して適用した。彼は哺乳類の雄のもつ乳頭,ある昆虫の雌で退化している羽など,雌雄間での器官の分化を含めて多くの痕跡器官の例をあげている。…

【サンゴ礁(珊瑚礁)】より


[礁形成についての諸説]
 サンゴ礁にはなぜこのような六つの主タイプができ,かつその分布に規則性があるのであろうか。かつてC.ダーウィンは1842年にサンゴ礁に裾礁,堡礁,環礁と三つの基本型を指摘し,陸地の沈降,すなわち海洋底の沈降にともない,裾礁から堡礁,さらに環礁へと順次移化していったとする沈降説subsidence theoryを唱えた。続いてJ.D.デーナは53年にサンゴ礁背後の島の海岸線の屈曲と溺れ谷の存在は沈降説の地形的証拠であるとした。…

【自然淘汰】より

…生物進化のしくみの中で,最も重要なものと考えられている過程。C.ダーウィンとA.R.ウォーレスが1858年に提出した進化論における進化要因論の中心をなす概念であり,現代進化学においても重要な地位を占める。 今日,この言葉はいくつかの意味に用いられている。…

【種の起原】より

C.ダーウィンによる進化論の古典的著作(1859)。正しくは《自然淘汰の方途による種の起原On the Origin of Species by Means of Natural Selection》と呼ばれるように,その内容は進化の要因が主に自然による淘汰にあるとする。…

【進化論】より

…生物進化論の歴史はC.ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。…

【精神分析】より

…〈エネルギー保存の法則〉を定式化したH.L.F.vonヘルムホルツの影響は,フロイトの徹底した決定論とエネルギー経済論に反映しているし,階層的・局所論的な心的構造論は,彼自身がかつてJ.H.ジャクソンの思想的影響を受けた神経学者であったことと関係していよう。さらにその人格発達論と退行理論にはC.ダーウィンの進化論の裏打ちがある。またJ.F.ヘルバルトの自然科学的・機械論的見地に立つ心理学とフロイト心理学の類似性もしばしば説かれている。…

【生態学】より

…それはE.H.ヘッケルが1866年に造ったÖkologieであった。彼はC.ダーウィンの影響の下に動物学の体系化を企てたが,その中において,従来の生理学や形態学その他の分野のほかに,〈動物の無機環境に対する関係および他の生物に対する関係,とくに同所に住む動物や植物に対する友好的または敵対的な関係〉を研究する分野を認める必要があることを述べ,その分野にÖkologieと命名した。このことばを英語化したものがecologyである。…

【生態的地位】より

…もちろん,これは観念的なものにすぎなかったが,自然界の実態をいくらかは反映するものだった。C.ダーウィンはこの観念を受けて,《種の起原》(1859)で自然淘汰を論じた際に,〈the place in the economy of nature〉という表現をなん度も使ってこの考えを明らかに述べている(ここでeconomyとは経済ではなく,自然の理法,自然の秩序を意味する)。このダーウィンの考えを受け継いで生態的地位ということばを導入し定義したのはC.S.エルトンであった(1927)。…

【動物行動学】より

…エソロジーということばは,I.ジョフロア・サンティレールが1859年に〈本能,習性など生物の表す行動と環境の関係を研究する学問〉として提唱したのに始まる(ただしこのことば自体は,それ以前にJ.S.ミルが〈人生学〉という意味合いで使っていた)。以後,さまざまな曲折を経るが,現在では〈ダーウィン以後の近代生物学のあらゆる手法を用いて動物の行動を研究する学問〉(K.ローレンツ)というのが,最も広く受け入れられている定義である。具体的には(1)行動の観察および記載,(2)その行動のメカニズム,(3)その行動の生物学的意味すなわち機能,(4)その行動の個体発生,(5)その行動の系統発生すなわち進化,以上五つのレベルに関する研究がある。…

【突然変異】より

…この場合,細胞は当面の死をまぬがれるが,多くの場合,突然変異をもつことになる。
[突然変異と進化]
 C.ダーウィンは《種の起原》において,現存する生物種の多様性は進化の産物であるという考えを提唱した(1859)。彼は自然観察を通して,種内にも個体差があり,種の違いにも連続性があることに気づいたのである。…

【農学】より

…それよりしばらく後の,ドイツ人植物生理学者さらに農学者ともいうにふさわしいザックスJ.von Sachs(1832‐97)は,光合成を含めて,広く植物の全般にわたる生理学研究を行い,それを取りまとめた植物・作物生理学の祖述者となった。光合成の研究に対して遺伝・育種分野で見落とすことのできない研究成果は,イギリス人C.ダーウィン(1809‐82)の諸業績,とくに《種の起原》《飼養動植物の変異》やオーストリア人G.J.メンデル(1822‐84)のエンドウを材料とした〈植物雑種の研究〉である。
[ソ連]
 ソ連における現代農学創出にあたってまずあげるべきは,ダーウィンとならび称され,とくに植物生理の分野で業績をあげたK.A.チミリャーゼフ(1843‐1920)である。…

【博物学】より

…18世紀から19世紀にかけて,折からの帝国主義の台頭に合わせて,珍奇な動植物や未知の秘境を求めて多くの探検旅行が組織され,膨大な量の博物学的知識が蓄積された。やがてビュフォンの《自然誌》,カントとラプラスの太陽系起原論,ライエルの《地質学原理》,ラマルクとC.ダーウィンの生物進化論などの相次ぐ発展によって,これら多様な自然物(のみならず自然全体)は歴史的に形成されたものであるという認識が加えられて,博物学は自然史学としての性格も併せもつようになった。そして19世紀半ば以降,自然の多様性の研究は単なる記載・分類の学ではなくなった。…

【ひげ(髭∥鬚∥髯)】より

…奈良時代から平安時代までの支配階級のなかには,肖像画にひげを残す人物も少なくないが,実際ひげがあったかどうか不明である。C.ダーウィンは,インドを境として以西の諸人種にはあごひげがよく発達しているが,以東では日本人も含めてひげは少なく,アイヌだけが例外であるという。けれども,ひげは民族の遺伝的特徴だけでなく,文化的特徴も現しているから,時代による風俗の変遷を無視して一概にひげの多少を決めつけることはできない。…

【フエゴ[島]】より

…オナの場合は血縁を基礎にしたバンド組織があり,領有する一定地域内で獲物を求めての移動生活をしていた。フエゴ島民に初めて接したヨーロッパ人はマゼランであったが,ダーウィンもビーグル号の航海で接している。もともと人口は少なかったが,19世紀末から羊の牧草地を求めて白人の入植が盛んになり,疫病の流行が主たる原因で人口が激減し,今日では絶滅に近い。…

【蔓脚類】より

… 蔓脚亜綱にはもう一つ無脚目Apodaというのがあった。進化論で有名なC.ダーウィンは蔓脚類の研究も熱心に行った。大英博物館にはそれらの標本が今もたいせつに保存されている。…

【痛み】より

…しかし,ここでも,まだ痛みを感覚とみたわけではなく,依然として情動の一つとされ,考えることのできない他の動物には精神がないので,痛みを感ずることができないとされていた。1794年になって,E.ダーウィンが過度の刺激によって温覚,触覚,視覚,味覚あるいは嗅覚(きゆうかく)が誇張されると痛みが起こるという考えを発表した。今日のように,痛みを独立した感覚とみなして他のすべての感覚から区別するようになったのは,19世紀の末になってからである。…

【ウパス】より

…毒を吐き散らすこの木の下で眠った人間は生命を落とすと恐れられ,死のシンボルともなったほどである。しかし18世紀に博物学者E.ダーウィンが詩による植物学解説書《植物園》(1789‐91)を著し,ウパスの毒を大きく取り上げてからは,この伝承が真実味を帯びてふたたびヨーロッパに広まることになった。その際,新たな情報源になったのは,オランダ東インド会社の外科医N.P.フースによるジャワ産ウパスについての記述であった。…

【進化論】より

…生物進化論の歴史はC.ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。…

【不老不死】より

…まずビュフォンは《博物誌》の中で,ファウスト伝説のような不死者が医学的に存在しえないことを指摘し,科学的長寿法をもとめることが新しい科学の課題の一つであると主張した。イギリスではE.ダーウィンが《ゾーノミア》を書き,老化現象を肉体の反応機能の鈍化とみなして,興奮や緊張など過度な肉体反応を控える生活を長寿の秘訣とした。また20世紀に入ると,E.メチニコフが食菌作用の面から老衰の解明を行い,ヨーグルトを飲用するブルガリアの長寿村と乳酸菌の因果関係を指摘した。…

【ルナ・ソサエティ】より

…十数人から成る地域的団体であったにもかかわらず,医学,化学,博物学の一流学者と実業家が参集し,ここから新興都市の産業革命熱を背景に蒸気機関や紡績機械,陸運・水運の改良,工業用苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や陶器の新製法,教育方法の改革など,応用科学を中心に多くの業績が生まれた。その発端は1765年に締め金具の製造者ボールトンMatthew Boultonと医師E.ダーウィン(C.ダーウィンの祖父),教育者スモールWilliam Smallがアメリカ人フランクリンとともに催した月例談話会にある。これに陶器業者ウェッジウッド,蒸気機関の開発者ワット,化学工業の開拓者キアJames Keir,馬車の緩衝装置を発明したエッジワースRichard Edgeworth,それに気体化学の先駆者J.プリーストリーが加わり,相互啓発によって多数の新くふうや理論を生みだした。…

※「ダーウィン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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