名誉革命(1688-89)によってイギリス国王ジェームズ2世が事実上退位を強制され,フランスへ亡命した後も,引き続き同王とその直系の子孫を正統な君主として支持した人々。ジェームズのラテン語形Jacobusにちなみジャコバイトと呼ばれた。その勢力は,宗教的には,カトリック教徒および英国国教会保守派の間でもっとも強かった。また地理的には,スコットランド高地地方がジャコバイトの最有力地盤であった。トーリー党政治家たちの間にも,王位世襲の原則を逸脱し,君主に対する臣下の抵抗権を事実上発動させた名誉革命を是認できない者がおり,彼らがジャコバイトないしはその同調者となって,1701年のジェームズ2世の没後も,息子のジェームズ・フランシス・エドワード(イギリス史上老僭王と呼ばれる)とひそかに接触を保った。しかしながら,ジェームズ2世や老僭王がカトリック教を信奉し続けたこと,またルイ14世治下のフランスの助けをかりて復位を企てたことが,ジャコバイト勢力の拡大を阻む要因となった。14年アン女王が死んでハノーバー朝のジョージ1世が即位したとき,トーリー党政治家の間に老僭王をジェームズ3世として擁立しようとする動きがあったが,未遂に終わった。これ以後トーリー党は〈ジャコバイトの反逆者〉の烙印を押されて振るわず,ホイッグ党の長期支配を許すことになる。ジャコバイトの大規模な反乱として,15年,老僭王のスコットランドへの上陸と支持者の決起,さらに45年,息子のチャールズ・エドワード(若僭王)のスコットランド上陸とイングランドへの南進,の2例があるが,いずれも鎮圧された。
執筆者:松浦 高嶺
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1688年の名誉革命で王座を追われたジェームズ2世とその直系卑属(1807年にその血統がとだえてからはチャールズ1世の子孫)を正統なイギリス王朝として支持した人々の呼称。ジェームズJamesのラテン語形ヤコブスJacobusから派生した語。名誉革命直後からアイルランド、スコットランド高地地方、北ウェールズなどに勢力を張り、とくにハノーバー朝成立後の1715年と45年には亡命中のプリテンダー(王位僭称(せんしょう)者)を支持して大規模な反乱を起こすなど、18世紀前半のイギリスの政治体制に脅威を与えた。その後しだいにその勢力は衰えたが、理念としてのジャコバイト主義は20世紀初頭まで生き続けた。
[大久保桂子]
イギリスの名誉革命で王位を失ったジェームズ2世とその男系の子孫を擁立して王位につけようとした人々。ジェームズのラテン語形「ジェイコブス」に由来する。1715年と45年にそれぞれジェームズの子と孫を擁して反乱を起こしたが,いずれも失敗に終わった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…アメリカでは一般に柄の大きな格子をプラッド,小さな格子をチェックと呼んでいる。
[ディストリクト・チェック]
スコットランドの領主制の確立とともに発展したクラン・タータンと異なり,これは1715年および45年のジャコバイト蜂起の失敗により,領主からの没収地やイングランドへ移住したクランたちが残していった土地に入った新興土地所有者たちによってデザインされた。彼らはイングランドやボーダー地区の貴族やジェントリーたちで,広大な土地を買い求め,領主の家系を示すクラン・タータンに代わるものとして,雇い人のために柄を創案した。…
…トーリー党の一部はウィリアムの王位を認めず,ジェームズ2世またはその子と孫を呼び戻す工作をつづけた。これらの人びとをジャコバイトという。一方,党内にはウィリアムの王位を認める人びとも現れ,ウィリアム3世の後を継いだアン女王のもとで,一時党勢を回復した。…
※「ジャコバイト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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