カラハン宣言(読み)カラハンセンゲン

デジタル大辞泉 「カラハン宣言」の意味・読み・例文・類語

カラハン‐せんげん【カラハン宣言】

1919年、カラハンの名において中国人民および南北両中国政府にあてて出された、満州の占領地放棄など帝政ロシア時代の対華不平等条約破棄宣言

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カラハン宣言」の意味・わかりやすい解説

カラハン宣言
カラハンせんげん

1919,20年の2回にわたり,ソビエト・ロシアが外務人民委員代理 L.カラハンの名で中国に対して発表した不平等条約撤廃宣言。 19年7月 25日付「中国人民および中国の南北両政府に対する声明」は第1次カラハン宣言,20年9月 27日付「外務人民委員部の中国政府あて中ソ協定条項」は第2次カラハン宣言と呼ばれる。第1次宣言は「確固とした永続的な平和」の樹立領土併合・賠償の放棄,1896年の露清条約をはじめとしたすべての秘密条約の廃棄,中東鉄道およびそれに付随する諸権利の無償返還,義和団事変賠償金の放棄,領事裁判権をはじめとする一切の特権の放棄を声明し,中国は第2の朝鮮あるいは第2のインドにならないためには,ソビエトの労働者,農民,赤軍と提携しなければならないと呼びかけた。この宣言は,1920年3月 26日付イルクーツク・ソビエト発のフランス文電報で北京政府外交部に届き,世界最初の対中国平等宣言として五・四運動以後国権回収,不平等条約撤廃の要求を強めつつあった中国各界にきわめて大きな反響を呼起した。しかし,19年8月 26日の『イズベスチヤ』と『プラウダ』に掲載された宣言文では,満州その他の地域の住民に政治形態選択の自由を与えるという個所と,中東鉄道無償返還の1節とが削除されていた。第2次宣言は,北京政府からモスクワに派遣された軍事外交使節団に提示されたもので,第1次宣言の内容を項目別に条文化して,将来の中ソ間の協定の基礎となるべき8項目の原則にまとめている。この宣言では,中東鉄道返還問題に関しては,第1次宣言のなかにあった無償返還の提議がなくなり,中国,ソビエト,極東共和国の3国間で中東鉄道運営のための特別の条約を結ぶとしている。その後の中ソ間の国交樹立交渉の過程で,中東鉄道問題は外モンゴル問題とともに最大の障害となった。カラハン自身は 23年 11月 30日付の北京政府中ソ交渉督弁,王正廷あての書簡のなかで,第1次宣言の中東鉄道無償返還の1節の存在を否定したが,党中央から 19年に発行された V.ビレンスキーの著書『中国とソビエト・ロシア』では,この無償返還の1節が存在することが明記されており,したがって第1次宣言には無償返還の1節が実在したものと考えられる。第2次宣言に基づいて,24年5月 31日中ソ協定が結ばれ,中ソ両国間に国交が樹立された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「カラハン宣言」の意味・わかりやすい解説

カラハン宣言 (カラハンせんげん)

ロシア連邦共和国政府の対中国不平等条約撤廃の宣言で,外務人民委員代理カラハンL.M.Karakhanの名によって発せられたのでこう呼ばれる。1919年7月25日,中国国民と広東・北京両政府にあてられた第1回宣言では,帝政ロシア政府の獲得した領土・東支鉄道(中東鉄路)・鉱山採掘権・林産資源・金鉱などの利権の無償返還,義和団事件賠償金の放棄,治外法権の撤廃などを宣言し,中国人民がロシアの農民・労働者・赤軍とともに闘うことを呼びかけた。それは革命直後に新政府が中国に呼びかけた国交樹立の諸条件を一歩前進させたもので,20年に中国で発表されると,五・四運動の興奮さめやらぬ中国各界に熱狂的な反響を生み,特に知識人の親ソ化に拍車をかけた。ついで北京政府が派遣した張斯(ちようしりん)を団長とする軍事外交使節団にカラハンが手交したのが9月27日付の第2回宣言である。その内容は第1回宣言の条文化であったが,東支鉄道の使用に関しては中ソのほかに極東共和国も運営に参加するとして,無償返還でなくなった点が異なっていた。なお24年5月,中国に派遣されたカラハンは北京政府との間に正式国交を樹立するが,その協定の中でこの鉄道は中国側が買い戻すことを認めている。また第2回宣言は孫文の広東国民党政府とソ連との間の〈孫文=ヨッフェ共同声明〉にも受け継がれて中ソの協力を約束することになり,カラハン宣言は中国の南北政府との友好関係を樹立する形で結実した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カラハン宣言」の意味・わかりやすい解説

カラハン宣言
からはんせんげん

ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議の「中国人民と中国の南北政府にあてたよびかけ」(1919年7月25日付け)と同外務人民委員部の「中国外交部に対する覚書」(20年9月27日付け)の二つの文書をさす。両文書とも外務人民委員代理のカラハンЛев Михайлович Карахан/Lev Mihaylovich Karahan(1889―1937)の署名があるので、一般には前者を第一次カラハン宣言、後者を第二次カラハン宣言とよんでいる。帝政ロシアが強制した不平等条約の自発的撤廃をいう第一次宣言が、1920年3~4月、中国で紹介されたとき、パリ講和会議に失望させられていた中国各界の人々からは、ソビエト政府への感謝と共感の声が一斉にわき起こった。しかし、中国で発表されたものと『イズベスチア』『プラウダ』(1919年8月26日付け)に掲載されたもの、および第二次宣言との間には、中東鉄道(日本では東支鉄道、東清(とうしん)鉄道などとよんだ)の無償返還に関する事項の有無をめぐって重大な相違があり、その後、中ソ間の外交上の紛糾の一因ともなった。

[安井三吉]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「カラハン宣言」の解説

カラハン宣言(カラハンせんげん)
Karakhan

1919年7月25日ソヴィエト・ロシア外務人民委員代理カラハンは,帝政ロシアが中国に強いたいっさいの不平等条約を破棄し,完全平等の原則に立って国交を回復する意思がある,と宣言した。翌20年北京政府はこれに応じようとしたが,イギリスが反対した。そこで10月27日再度カラハンは宣言を発した。この宣言は中国人を感激させ,中ソ国交回復の機運を強め,24年国交が樹立された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「カラハン宣言」の解説

カラハン宣言
カラハンせんげん
Karakhan

1919年7月と20年9月の2回,革命直後のソヴィエト政権が帝政時代に結んだ中国との不平等条約を破棄すると声明した宣言
外務人民委員代理カラハン(1889〜1937)の名で,帝政ロシア時代,侵略によって得た領土・賠償金を返却し,平等の原則に立って国交関係を結び,民族解放運動を援助しようと提議した。中国の反帝国主義運動を刺激し,これを受けた孫文は連ソ容共策をたてた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

百科事典マイペディア 「カラハン宣言」の意味・わかりやすい解説

カラハン宣言【カラハンせんげん】

1919年と1920年の2回にわたってソ連外相代理カラハンL.M.Karakhan〔1889-1937〕が発した中国問題についての宣言。民族自決の原理に基づき,帝政ロシアが中国で獲得したすべての領土・利権の放棄を宣言し,中ソの友好関係樹立を提議し,以後の国交回復(1924年)の契機となった。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android