日本大百科全書(ニッポニカ) 「カーロ」の意味・わかりやすい解説
カーロ
かーろ
Frida Kahlo
(1907―1954)
メキシコの画家。メキシコ・シティの郊外コヨアカン生まれ。父親ギエルモGuillermo Kahlo(1871―1941)はドイツから移住したハンガリー系ユダヤ人でプロの写真家、母親マティルデMatilde Calderón y González(1876―1932)はインディオの血を引くメキシコ人であった。フリーダ・カーロは、6歳のとき、小児麻痺(まひ)のために右足の発育が止まるという最初の不幸にみまわれ、ついで、国立予科高等学校時代の1925年9月、乗り合わせていたバスが路面電車と衝突し、右足と腰椎(ようつい)の骨折、下腹部の創傷という二度目の不幸に遭遇する。事故後の療養生活の間に絵筆をとったことが画家カーロの誕生の契機となった。1929年、メキシコ絵画運動の推進者ディエゴ・リベラと結婚する。しかし、ディエゴはフリーダの妹のクリスチーナCristina Kahlo(1908―1964)と密通し、フリーダも亡命中のロシアの革命家L・トロツキーと親密な関係を結ぶ。1939年、フリーダとディエゴの二人は離婚するが、1年後に復縁する。1943年、リベラとともに文部省絵画彫刻学校の教師となる。しかし翌1944年にはベッドでの絶対安静が必要となり、1954年7月13日、肺塞栓(はいそくせん)症により死去する。一説には睡眠薬自殺ともいわれている。
カーロの絵画は、強烈な色彩と奇怪なイメージ、そして一見稚拙ともみえる描法を特色としているが、そこには、メキシコ土着の民俗芸術「レタブロ」(retablo、奉納画)との著しい類縁性が認められる。実際、コヨアカンにあるカーロの自邸の階段吹き抜けの壁面には、聖人の秘蹟(ひせき)を物語るレタブロが飾られていた。しかし、レタブロに存在しながらカーロの作品にはみいだしがたいものがある。「奇跡」である。レタブロでは、特定の聖女や聖人が介在する奇跡的なできごとが主題化され、その物語の細部が画中の銘文によって語られるが、カーロは、そうした奇跡のかわりに、彼女が直接体験した愛や憎しみ、苦痛や嘆きを繰り返しとりあげるのである。実のところ、47年にわたるカーロの生涯は、奇跡とはほど遠い深い孤独と憂愁に浸されていたというべきであり、その作品に彼女自身の姿、すなわち自画像が多いことは決して偶然ではない。画家は、過酷な運命に翻弄(ほんろう)される自己を凝視することによってその芸術を深化させていったのである。
こうしてつねに生の悲しみや悲惨と対峙(たいじ)し、絵画制作によってかろうじてそれに耐えていたカーロの作品が、一種自己破壊的な刻印を帯び、その表現のグロテスク性が、「驚異的なもの」をもっとも高く評価するシュルレアリスムの詩的イメージに近接するものであったことは少しも不思議ではない。事実、1938年4月のメキシコ訪問のおりに、「メキシコこそ、このうえなくシュルレアルな国」と評した詩人のアンドレ・ブルトンは、同年11月のニューヨークのジュリアン・レビ画廊でのカーロの個展に際し、彼女の作品は「みごとな超現実性」を獲得し、その「残酷さとユーモアの雫(しずく)」によって、「メキシコ独得の魔法の媚薬(びやく)」となっている、という最大級の賛辞を呈するのだった。カーロ自身は、女性蔑視(べっし)的、植民地主義的なシュルレアリスムの反動性に疑義を呈し、自らシュルレアリストであることを否定していたが、「カーロの絵画におけるシュルレアリスムの影響を否定することはばかげている」というオクタビオ・パスのことばが示唆するように、少なくとも、シュルレアリスムがこのメキシコの特異な画家に国際的な活躍の場をもたらしたことは否定できないだろう。
かくしてほとんど想像を超えたあらゆる不幸を引き受けながら、それらに女性特有の表現を与えたカーロに対しては、フェミニズム的視点からの再評価にも著しいものがある。
[村田 宏]