翻訳|Moses
紀元前13世紀、古代イスラエル民族とその宗教を基礎づけたと伝えられる指導者。ヘブライ語でMōšehと書き、モーゼまたはモイゼともいう。
[木田献一]
前1280年ごろ、イスラエル民族はモーセに率いられてエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェとの契約関係に入り、ヤーウェの民になったという。それ以前はヘブライ人とよばれる小家畜を飼育する諸部族の集合にすぎなかったが、ヤーウェ宗教の受容によって、一つの民族としての自覚をもつに至ったのである。
シナイ山における契約に際して、モーセは神からイスラエルの民が守るべき「十戒」を授かった。十戒は、『旧約聖書』の「出エジプト記」20章と「申命記」5章にほぼ同じ形で記録されており、他神や偶像の礼拝を禁じ、殺人、姦通(かんつう)や窃盗を禁止するなど、ユダヤ教とキリスト教における宗教と倫理の基礎をなすものとして重視されている。
モーセは、シナイ山で神ヤーウェとイスラエルの間に契約を結ばせたあと、神が先祖アブラハムに与えると約束したカナンの土地を民に得させるため、40年間、荒野を放浪した。その旅は困難を極め、疲労と飢えに不満が爆発して民はしばしば反抗したが、彼は忍耐強く統率し、約束の地へ導いていった。モーセは、「そのひととなり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(「民数記」12章)といわれている。モーセは荒野の旅において、民が神に対して示した不信の責任を負わされ、自らはカナンの地に入ることを許されず(「民数記」14、20章)、ヨルダンの対岸に達しながら、モアブの地からカナンを眺めるのみで死んだ。彼の墓の所在も知られないままだと記されている(「申命記」34章)。
[木田献一]
モーセに関する記事は「出エジプト記」から「申命記」に及んでおり、古くから「創世記」に始まり「申命記」に終わる「モーセ五書」(『旧約聖書』の最初の五書。律法=トーラー)は、モーセの著作であると信じられてきた。しかしモーセについて知りうる確実な歴史的事実はごくわずかである。「出エジプト記」1~2章にあるモーセの誕生と青年期の記事も、英雄伝説的色彩が濃い。ただ「出エジプト記」3~6章に、モーセが神の啓示を受け、出エジプトの事業を託されたこと、「ヤーウェ」という神名を初めて知らされたことなどが書かれているが、これは歴史的事実に基づくものであろう。エジプト脱出や唯一神教の確立などという民族的大事業は、傑出した人物によらなければ成就しえないからである。「出エジプト記」の19~40章、さらに「レビ記」全体と「民数記」10章までは、イスラエルの民がシナイ山に滞在していた時期についての記事になっている。ここには十戒のほか多くの律法が記されている。しかしこの大部分は、後代のユダヤ教が、すべての権威ある律法はモーセがシナイ山で神から直接与えられたものとするため、ここに集めたものと考えられる。その結集と正典化は紀元前400年ごろには、ほぼ完了した。
モーセはイスラエル民族の歴史のなかで、しだいに理想化され、預言者の原型と考えられ、またユダヤ教のすべての権威ある律法を与えた者とされた。『新約聖書』において、イエス・キリストは新しいモーセであり、山上の垂訓は新しいモーセの律法だと理解されている。
[木田献一]
『浅野順一著『モーセ』(岩波新書)』
ヘブライ語ではモーシェ。古代イスラエル民族のエジプトにおける迫害,エジプト脱出(出エジプト),荒野彷徨,シナイ滞在,カデシ滞在,カナン侵入直前までの,前13世紀のカリスマ的指導者であり,イスラエル宗教と生活形態の創始者としてあがめられている。民間語源説によれば,ヘブライ語に関連づけてナイル川から〈ひき出された〉者を意味するとされるが,エジプト新王国期のファラオ(王)の名に多い〈-メス(生む,子)〉と関係し,エジプト語に由来する。モーセについては《出エジプト記》《レビ記》《民数記》《申命記》がその主資料であるが,後代のものが多い。古伝承によれば,ラメセス2世の時代に,レビ族の家に生まれ,王妃の養子として王宮に育てられたが,成人後,同胞を迫害するエジプト人を殺害し,その露見を恐れて,南パレスティナのミデアン地方に逃亡,そこで祭司エテロ(リウエル)の娘と結婚し,羊飼いとして過ごす。ある日,神ヤハウェの顕現に接し,エジプトで呻吟(しんぎん)する同胞の解放者としての使命を与えられて,エジプトに戻り,救出に成功する。聖書は,十の災いの後に葦の海(紅海)の奇跡があったとする。エジプト脱出の道程,シナイ山(山の位置については諸説があり不明である)において,海の奇跡を介しての神ヤハウェの恩恵に基づいて,神と民との契約がモーセを仲保者としてなされ,おそらく十誡の原形に基づいて,その後の聖書共同体の特色をなす契約(誓約)共同体が成立したと思われる。その後荒野を旅し,カデシ・バルネアの大オアシスで約40年の生活をし,ここで裁判制度も導入された。民の不満は幾度か反乱を招き,モーセは指導者として多くの苦難を経験した。これが苦難の僕としての指導者像の範型となった。カデシからの直接北上に失敗し,死海東岸の〈王の道〉に沿って迂回北上し,ネボ山で約束の地を望みつつ死んだとされる。
執筆者:左近 淑
モーセの生涯の美術表現としては,〈紅海を渡るモーセ〉と〈シナイ山上で十誡を受けとるモーセ〉の場面が,古くから数多く描かれてきた。前者ではドゥラ・ユーロポス(シリア)のシナゴーグ壁画(3世紀初)やラティナ街道のカタコンベ壁画(4世紀)があり,後者ではサンタンブロージョ教会(ミラノ)の石棺浮彫(4世紀)などが初期の例として知られる。中世初期以降は,聖書写本挿絵などにくわしいモーセ伝が数多く描かれるようになり,上記2場面のほか,〈赤児のモーセを拾うパロ(エジプト王)の娘〉〈エジプト人を殺害するモーセ〉〈モーセと燃える柴〉〈十誡をユダヤ人たちに伝えるモーセ〉〈モーセとアロン〉などの場面が見られる。
近世以降では,ミケランジェロの彫刻《モーセ》(1513ころ)がとくに名高い。成人のモーセは,長いひげをはやした姿で表される。
執筆者:浅野 和生
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前13世紀頃のヘブライ人の伝説的預言者,立法者。ファラオの圧政に苦しむヘブライ人を率いてエジプト脱出を敢行し,約束の地カナーンに導いた(出エジプト)。途中,シナイ山で神ヤハウェより授かった十戒は,のちのユダヤ教の律法の中核をなすものであった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ウクライナ語,ポーランド語,ロシア語,ドイツ語などで書かれた作品,論文,パンフレットは約5000編にのぼる。代表作にゾラ風の手法で労資の抗争を描いた《ボア・コンストリクトル》(1878),投獄体験を描いた《どん底》(1880),ウクライナ人の運命を偉大な予言者に仮託して描いた長編詩《モーセ》(1905)がある。【川端 香男里】。…
…モーセ時代のイスラエル民族の祭司。《出エジプト記》そのほかでの伝承によれば,アロンはモーセの兄として,同胞の救出や荒野の民アマレクとの戦いにおいてモーセに協力し,神の山シナイ山に同道するが,他面,姉の女預言者ミリアムとともにモーセに反抗したという記述もあり,人物像が一定しない。…
… ヤコブ一族のヘブライ人は,飢饉を逃れてエジプトへ移住したが,やがてエジプト人の奴隷となって苦役に服した。このとき,族長の神と名乗るヤハウェの顕現を受けたモーセが,ヘブライ人を率いてエジプトを脱出した。紅海を渡るさいに,エジプト軍の追跡から奇跡的に救われたヘブライ人はシナイ山に行き,モーセを仲保者としてヤハウェと契約を結んだ(〈シナイ契約〉)。…
…そのため,神の法的意志に従う倫理的合理性(M.ウェーバー)が特徴的な宗教的性格をなす。
[歴史的諸相]
ヘブライズムの神は,歴史的にはモーセ時代に起源するが,その背景はさらに古く,《創世記》の族長期の〈族長の神〉にさかのぼる。彼らは季節的移動を生活様式とする半遊牧民として,特定の土地と結びつくヌーメン(神的存在)でなく,後代〈アブラハム,イサク,ヤコブの神〉と呼ばれるように,氏族の名祖の人格と結びついたヌーメンを尊崇した。…
…ヘブライ語の〈ベリースberîṯ〉はアッカド語のbarû(縛る)の名詞形birîtu(束縛)と関係があると推測され,元来一定の約束のもとに個人または集団が相互に拘束関係に入ることを意味している。旧約聖書においてはこの語を神とイスラエルの民との宗教的な関係に適用し,モーセが民を代表してシナイ山で神と契約を結び,神がイスラエルの神となり,イスラエルが神の民となるという契約関係が成立した。これを〈シナイ契約〉と呼ぶ。…
…名称は《七十人訳聖書》に由来する。モーセ五書,あるいは〈律法(トーラー)〉の第2書をなす。第1書《創世記》がイスラエル民族の背景を成す家族史であるとすれば,この書は,直接,民族の誕生にかかわるできごとを記し,ユダヤ教,新約聖書キリスト教会で救済の範型として重んじられてきた。…
…アーサー王は水面に立つ湖の姫の手から名剣エクスカリバーExcaliburを譲り受け,死に際して部下のベディビアに再び湖に投げて返させたところ,水中から現れた手がこれを受けとめてそのまま水面下に没した。旧約聖書では,ヤハウェは民衆にみずからの神性を示すため,つえが手から離れれば蛇になるが,手に拾えばつえにもどる奇跡,および手を懐から出せば癩(らい)病の手となり,再び懐に入れてとり出せば元どおり回復した手になるという奇跡をモーセに行わせた(《出エジプト記》4:3~7)。新約聖書の神も手を使ってみずからの神性を証明しようとする。…
…族長アブラハムの孫ヤコブは,別名をイスラエルと称し,のちに12部族の名祖となった12人の子らの父であったが,飢饉を逃れてエジプトへ移住した。その子孫がエジプト人の奴隷にされて苦役に服したときに,族長の神と名のる主の顕現を受けたモーセが,彼らを率いてエジプトを脱出した。彼らは紅海でエジプト軍の追跡から奇跡的に救われたのち,シナイ山において主と契約を結んだ(〈シナイ契約〉)。…
… 古代イスラエルの思想史的発展の記録である旧約聖書では,すでに最も古いいわゆる族長アブラハムを預言者と呼んでいる個所があるが(《創世記》20:7),狭義の預言者は一定の社会史的条件のもとに登場し,活動したもので,その点で広義の預言者的ということと区別したい。モーセに預言者的要素が強いことは彼についての旧約聖書の記述にさかのぼり,歴史的に考えてもある程度にこれを認めうる。モーセ時代に続くいわゆる士師の時代に輩出した〈カリスマ的指導者〉士師に預言者的要素が強いことも当然であるが,そのような預言者的伝統を受けて士師時代の終り,王国時代の初めに活動したサムエルに狭義の預言者の最初の活動を見いだしたい。…
※「モーセ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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