クルシェネク

百科事典マイペディア 「クルシェネク」の意味・わかりやすい解説

クルシェネク

オーストリアのユダヤ系作曲家。クシェネクともいう。生地ウィーンとベルリンで作曲家シュレーカーに師事。ベルリンではブゾーニシェルヘンらと親交を深めた。師シュレーカーの影響下に後期ロマン派様式から出発したその作曲活動は,無調,新古典主義遍歴を重ね,ジャズ語法を取り入れたオペラ《ジョニーは演奏》する(1926年)で一躍名声を得た。ウィーン帰郷後は,ベルクウェーベルンらとの交流をきっかけに12音技法(十二音音楽)を導入。オペラ《カール5世》(1933年,改訂1954年)を完成するが,ナチスの圧迫を受け1938年米国へ亡命,1945年市民権を得る。亡命後も旺盛な作曲活動を展開し,独自の12音技法を用いた合唱曲《エレミア哀歌》(1941年)はストラビンスキーにも影響を与えた。1950年代後半からはミュジック・セリエルの技法を採用。著書も多く,哲学者アドルノとの往復書簡(1929年−1964年)は20世紀文化史の貴重な証言となっている。
→関連項目合奏協奏曲

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改訂新版 世界大百科事典 「クルシェネク」の意味・わかりやすい解説

クルシェネク
Ernst Křenek
生没年:1900-91

オーストリアの作曲家。F.シュレーカーに学ぶ。作風は無調時代(1921-23),新古典主義(1924-26),新ロマン主義(1926-31),十二音主義(1931-56),ミュジック・セリエル時代(1957- )など多様に変化した。出世作はジャズの語法を採用したオペラ《ジョニーは演奏する》(1926)。1938年アメリカへ亡命後合唱曲《エレミアの哀歌》(1941)で独自の十二音技法(〈循環原理〉。12音を6音ずつに分割し,それぞれに〈音程の循環〉〈音高の循環〉をほどこす)を考案し,晩年のストラビンスキーに影響を与えた。主著に《対位法の研究》(1940)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クルシェネク」の意味・わかりやすい解説

クルシェネク
くるしぇねく
Ernst Křenek
(1900―1991)

オーストリア生まれのアメリカの作曲家。生地ウィーンとベルリンで作曲を学ぶ。最初期にはロマン主義的影響を示したが、しだいに無調性に転じ、不協和な響きに富む交響曲第2番(作品7、1922)などを書く。1924年パリを訪れ、新古典主義音楽の影響を受け、27年ライプツィヒ初演のジャズ・オペラ『ジョニーは演奏する』が出世作となった。28年ウィーンに戻り、ベルクやウェーベルンらの新ウィーン楽派に共鳴して十二音技法に転じ、のちさらに電子音楽を手がけるなど、第一次世界大戦後の現代的手法を広く示すが、個人的様式の変化にとどまり、他への影響は少ないうらみがある。37年アメリカに移住、映画音楽を書いたり各地の大学で教え、45年に市民権を得た。

[細川周平]

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世界大百科事典(旧版)内のクルシェネクの言及

【十二音音楽】より

…ウェーベルンは《交響曲》(1928)以後点描的な作風に転じて独自の十二音音楽を確立し,第2次世界大戦後の音楽に絶大な影響を与える。クルシェネクはウェーベルン,ベルクらによって十二音技法を知り,オペラ《カール5世》(1933)からこれを用い始めた。しかしクルシェネクは合唱曲《エレミアの哀歌》(1942)で十二音技法に独自の改良を加えた。…

【セリー】より

…彼はこれを〈奇跡の音列〉と呼んだが定義があいまいなため,のちにその名称を取り下げた。 クルシェネクは音列の移置形に創意をこらした。図4のaI,aII,aIIIでは音高が〈循環〉しており,a1,a2,a3では音程が循環している。…

※「クルシェネク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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