クレイステネス(読み)くれいすてねす(英語表記)Kleisthenes

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレイステネス」の意味・わかりやすい解説

クレイステネス
Kleisthenēs

[生]前570頃
[没]前508頃
古代ギリシア,アテネの政治家。名門アルクメオン家のメガクレスとシキュオン僭主クレイステネスの娘アガリステとの間に生れた。アルクメオン家は,アテネの僭主ペイシストラトス家と長く敵対関係にあり,クレイステネスも国外に亡命していたが,ペイシストラトスの死後,帰国を許され,前 525年にはアルコンとなった。しかし再び亡命を余儀なくされた。キュロンの反乱後の処置をめぐる涜神の罪で追放されたアルクメオン家のメガクレス以来,デルフォイのアポロ神殿と密接な関係をもっていたため,デルフォイの神託の力をかりて,スパルタを動かし,前 510年スパルタ王クレオメネス1世がアテネを侵攻して,ペイシストラトス家を追放したあと,アテネに帰国。僭主政崩壊後クレオメネス1世と結んで寡頭政樹立を企てたイサゴラスら寡頭派と対立。前 508年民衆の支持を受けて,民主的改革案を打出したが,同年アルコンに就任したイサゴラスによってまた追放され,亡命を余儀なくされた。しかし民衆の抵抗,スパルタの2王間の不和,コリントのおもわくなど,内外の情勢に助けられて召還され,改革を断行。僭主政防止のため,市民の票が一定数集れば危険と思われる人物を国外に 10年間追放できるオストラシズム (陶片追放) の制度を設けた。また全アッチカを 150区に分けた所属区で名前を表わすようにし,家柄を示す父称を廃し名門の支配打倒を策し,区をもとにして市域内地海岸を組合せて 10部族をつくり,以前の血縁的部族 (フュレ) を廃して行政軍政の基礎にした。各部族から1人出る将軍 (ストラテゴス) ,五百人評議会が新たに設けられ,以後重要な機関となった。この改革はアテネ民主主義の基礎を固めた。

クレイステネス[シキュオン]
Kleisthenēs of Sikyōn

[生]?
[没]前570
シキュオンの僭主 (在位前 600頃~570) 。建国以来のドーリス系アルゴス人の支配に抵抗してドーリス系3部族の名を改め,さらにアルゴスの英雄アドラストスの信仰を排しディオニュソス祭を導入した。治世中シキュオンの力は絶頂に達し,第1次神聖戦争 (前 600頃~590) では隣保同盟 (アンフィクチオニア ) を助け,指導的役割を演じてクリサを破壊した。一方,宮廷には芸術家を集め,ピュチアやオリュンピアの競技にはみずから参加して戦車競走に優勝したこともある。なお,娘アガリステの婿を全ギリシアに求め,競わせてアテネのアルクマイオン家のメガクレスにとつがせたが,その子がクレイステネスであり,孫娘アガリステがペリクレスの妻となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クレイステネス」の意味・わかりやすい解説

クレイステネス
くれいすてねす
Kleisthenes

生没年不詳。古代ギリシア、アテネの政治家。アテネの名門アルクメオン(アルクマイオン)家に生まれ、母方の祖父はシキオンの僭主(せんしゅ)クレイステネス。紀元前525年に最高役人のアルコン・エポニモスを務めたが、のち亡命し、前510年ヒッピアスの僭主政崩壊とともに帰国。前508/507年に民衆を味方にして、スパルタに助けられた政敵イサゴラスを打倒し、国制の大改革を断行した。すなわち、地縁的な10部族(ヒュレphyle)を新たに組織して、従来、貴族の勢力基盤であった氏族制的な4部族の政治・軍事の役割をこれに移し、10部族の下部単位として百数十の区(デモスdemos)を設けて、各市民の所属する区を定め、たぶん農民級までの市民500人からなる評議会を設置して、広範な権限をこれに与え、僭主の再来防止のためにオストラキスモス(陶片追放)の法を制定した。こうしてアテネに重装歩兵民主政を確立し、前5世紀の民主政の発展の基礎を置いた。その後まもなく、スパルタとの衝突に備えてペルシアとの同盟を求め、市民の反対を受けたことから失脚したらしい。

[清永昭次]

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