前6世紀のアテナイの政治家。アルクメオニダイのメガクレスとシキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステとの子で,ペイシストラトスの僭主政と戦いつつアテナイ民主政を確立した改革者。ペイシストラトスの死(前528か527)後アテナイに帰還したらしく,前525か524年にアルコン職についたことは碑文から疑いがない。しかしペイシストラトスの子ヒッパルコスが殺された(前514)後アルクメオニダイは追放されたが,デルフォイにあってアポロン神殿の神託所の巫女に大きな影響力を発揮した。ことにクレイステネスは神殿再建を請け負ってその好意を得,神託を求めに来るスパルタ人に,アテナイを僭主政から解放するようにと巫女の口を通じて勧告を続け,前510年スパルタ軍の援助を得たアテナイ民主派の市民が,僭主ヒッピアス一族を追放することに成功した。その頃スパルタは近隣の僭主政を倒して寡頭政を樹立しようとしており,アテナイの僭主政の場合もそのような国策の一環としてその打倒に力を貸したものと思われる。
クレイステネスは寡頭派のイサゴラスIsagorasと争って,民衆の支持を得るために民主的な改革をおこなうことを決意し,部族改編と行政区(デーモス)を基礎とする新体制の樹立に着手した(前508か507)。彼はアッティカ全土を都市部・内陸部・海岸部に分け,各部を10の地区に分け,各部の1地区ずつをくじ引きで結合して1部族とし,都合10部族を創設した。このことにより従来の4部族制度に代わって,すべての部族が都市部・内陸部・海岸部の地区(トリッテュス。〈3分の1〉の意)から成ることになり,市民間の利害が混交された。部族の下には行政区(デーモス)がおかれ,評議会は各部族が選出した50人の評議員から成る五百人評議会となり,評議員は各区からだいたい人口に比例して選出されることとなった。区の数は部族ごとに一定しなかったが,今日までの研究では139の区がこのとき制定され,アテナイ市民はその区名を冠して呼ばれた。オストラキスモスも彼の改革の一環と考えられる。
執筆者:太田 秀通
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生没年不詳。古代ギリシア、アテネの政治家。アテネの名門アルクメオン(アルクマイオン)家に生まれ、母方の祖父はシキオンの僭主(せんしゅ)クレイステネス。紀元前525年に最高役人のアルコン・エポニモスを務めたが、のち亡命し、前510年ヒッピアスの僭主政崩壊とともに帰国。前508/507年に民衆を味方にして、スパルタに助けられた政敵イサゴラスを打倒し、国制の大改革を断行した。すなわち、地縁的な10部族(ヒュレphyle)を新たに組織して、従来、貴族の勢力基盤であった氏族制的な4部族の政治・軍事の役割をこれに移し、10部族の下部単位として百数十の区(デモスdemos)を設けて、各市民の所属する区を定め、たぶん農民級までの市民500人からなる評議会を設置して、広範な権限をこれに与え、僭主の再来防止のためにオストラキスモス(陶片追放)の法を制定した。こうしてアテネに重装歩兵民主政を確立し、前5世紀の民主政の発展の基礎を置いた。その後まもなく、スパルタとの衝突に備えてペルシアとの同盟を求め、市民の反対を受けたことから失脚したらしい。
[清永昭次]
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前6世紀
アテネ民主政治の基礎をすえた有名な政治家。名門のアルクメオン家の出であるが,前510年に僭主(せんしゅ)政治が倒れたのち,民衆と手をつなぎ,前508年国制の大改革を行った。行政,軍制の基礎として,在来の4部族制に代わる10部族を設け,それにもとづく五百人評議会をつくったほか,陶片追放の制度を創始した。
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…とくに農民育成策は,彼ら農民の実質的な地位の向上につながるものとして,ソロンの政策をさらに一歩前進させたものと評価することができる。 ペイシストラトスの僭主政に次ぐ節目をなし,しかもアテナイ民主政成立史上,ソロンの改革とともに最大の転回点を形づくるのが,前508年のクレイステネスの改革である。前510年,ヒッピアスの代にペイシストラトス家の僭主政が倒れたのち,激しい党争をへて,海岸党を率いるアルクメオン家のクレイステネスが政権を掌握し,多数の市民の支持の下に一連の改革を行った。…
…投票に際して陶器の破片(オストラコン)が用いられたところから〈陶片追放〉の名がある(〈貝殻追放〉は誤り)。前508年にクレイステネスにより創設されたとの伝えがあるが,はじめて実際に施行されたのは前488年,ペイシストラトスの親族ヒッパルコスに対してである。毎年1回民会でその実施について採決が行われ,可決されると各市民は追放されるべき人物の名を陶片に刻んでこれを投票に付し,最多得票者1名が追放された。…
…ペイシストラトスが死ぬと(前528),その子ヒッピアスとヒッパルコスが僭主政の中心となった。しかしこのころから僭主政打倒の企ても秘密裡に進められ,中流市民ハルモディオスとアリストゲイトンがヒッパルコスを殺すと,ヒッピアスの政治は苛酷となり,スパルタ軍の援助によってクレイステネスを中心とする民主派がヒッピアス一味を追放して僭主政は終わった(前510)。アテナイは再び貴族派と民主派の党争に引き戻されたが,民主派のクレイステネスが民衆の支持を得て改革を断行した(前508か前507)。…
…〈将軍〉と訳されることが多い。クレイステネスの改革後のアテナイでは,10人が部族ごとに(後には全市民の間から)選ばれて,アルコン・ポレマルコスの司令のもとに部族成員の指揮にあたった。前487年の抽選制導入によりアルコン職の地位が低下すると,挙手による選出のうえに重任が許されていたため,この職の比重は増大した。…
…しかし前6世紀末の陶画工エウテュミデスの絵付と推定されるアンフォラのアッティカ赤絵の図柄にデーモスの人格化の最初の例が見いだされるとの仮説もある。アッティカの行政区としてのデーモスはクレイステネスの改革によって成立したが(前508または前507),都市部のそれは別として,内陸部や海岸部のそれは従来から存在した自然村落を大体において基礎としていたと考えられ,新しい評議会である五百人評議会を構成する評議員(各部族50人)は,各デーモスの人口に比例して選出されたと推定され,比例代議制のはじめとされている。また市民は区名を冠して呼ばれるようになったが,登録されたのは,区制創設当時の居住地だったと思われ,後の市民の区名は必ずしも現住所を示すものではなかった。…
※「クレイステネス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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