フランスの化学者。シェルブールの兵器工場勤めの労働者の子として生まれる。リヨン大学に入り、初め数学を好み、化学には親しまなかった。1900年化学者のバルビエPhillipe Antoine Barbier(1848―1922)に巡り会ったことが化学者としての彼の将来を決めることになった。有機合成に亜鉛のかわりにマグネシウム金属を用いたらという師の指示が功を奏し、広範囲に有用なグリニャール試薬(臭化あるいはヨウ化アルキルのエーテル溶液にマグネシウム粉を溶かしてつくった)の発見となった。ブザンソン、ナンシーなど地方大学の講師や教授を務め、1912年ノーベル化学賞を触媒研究のP・サバチエとともに受けた。1914年第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともに軍務に服し、毒ガスの研究に従事したが、戦後は有機化学研究に戻り、1919年リヨン大学の教授、最晩年は『有機化学大系』Traité de chimie organiqueを編集し、自ら有機化学の歴史を書いた。
[都築洋次郎]
フランスの有機化学者。シェルブール生れ。リヨン大学に学び,バルビエPhilippe Antoine Barbierの指導でヨウ化メチルマグネシウムの反応を研究し(1898),学位論文としてグリニャール試薬を発表(1901),さらに多種の有機化合物の合成にその反応を拡大し,第1次大戦中には毒ガスの研究にも従事した。ナンシー大学有機化学教授(1910)を務めた後,バルビエのあとを継いでリヨン大学教授(1919)の地位にあり,没するまでリヨンに住んだ。グリニャール試薬の発見は,有機化学の学問分野だけでなく応用分野にも大きな発展を促すことになり,1912年にノーベル化学賞をP.サバティエとともに受賞した。
執筆者:岩田 敦子
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
フランスの化学者.リヨン大学で数学を学んだが有機化学に転じ,同大学の化学科長P.A. Barbierの示唆で,有機マグネシウム化合物を研究した.Barbierはすでに無水エーテル中で有機ヨウ素化合物とマグネシウムの複合体を得ていたが,Grignardはエーテル溶液中でマグネシウムと有機ハロゲン化合物を反応させて安定な化合物(グリニャール試薬)を得た.1909年ナンシー大学に移り,翌年教授となり,第一次世界大戦中はフランス政府に協力して軍事研究に従事し,1919年にBarbierを継いでリヨン大学に戻った.グリニャール試薬の発見による有機化学の発展の業績で,1912年ノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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…19世紀において知られていた炭素‐炭素結合生成反応は,アルドール縮合とその類似反応ほか2,3程度であった。F.A.V.グリニャールは,1901年グリニャール反応を開発して有機金属化合物の利用による温和な条件下での炭素‐炭素結合の生成の道を開いた。ディールスOtto Paul Hermann Diels(1876‐1954)とK.アルダーの発見したディールス=アルダー反応(ジエン合成,1928)は,環式化合物を鎖式化合物から一挙に合成する強力な手段となった。…
…そしてこの亜鉛化合物は有機合成にきわめて有用なことから,その後多くのアルキル亜鉛化合物がつくられているし,同じようにして69年オットーR.Ottoがアリール水銀をつくっている。しかしなんといっても有機金属化合物の歴史のなかで重要なものの一つはグリニャール試薬である。これは99年フランスのバルビエPhilippe Antoine Barbier(1848‐1922)によって初めてつくられた。…
※「グリニャール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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