オランダの法学者。オランダ名はフロートHuig de Groot。デルフトの名門に生まれた。才能に恵まれ8歳のときすでにラテン語の詩2編を作り,11歳でライデン大学に入り14歳で卒業。1598年15歳でオランダ使節団の随員としてフランスのアンリ4世の宮廷に使し,フランス王をして〈オランダの奇跡〉とその才を嘆賞せしめた。同年12月16歳で弁護士を開業したが,実務よりも学問に熱中し,この時期以後生涯を通じて多数の著作を公にしている。かかる間にオランダ東インド会社がポルトガル船を捕獲するという事件が起こり,会社の委嘱によりオランダ側の立場を擁護するため1604-05年《海上捕獲法論》を執筆した。これが彼が国際法に興味をもった機縁といわれる。本書の第12章は09年《海洋自由論》として公刊されたが,残部は1864年原稿が発見され,68年に公刊された。
1607年以後,彼は政治・外交の実際に参画するに至っているが,やがてゴマルス派対アルミニウス派の神学論争をめぐる政治闘争にまき込まれ,後者に好意をよせつつも宗教的寛容を説き,両派の和解に努めた。しかし彼の努力は成功せず,18年に彼はゴマルス派のオランイェ公マウリッツによって逮捕され,翌年国家転覆の陰謀を理由に終身禁固・財産没収の刑を宣告され,ルーフェシュタイン島の古城に幽閉された。この幽閉中に《キリスト教の真理》(1627)と《オランダ法学入門》(1631)が書かれた。21年書物運搬用の箱に身をひそめて劇的な脱走に成功し,フランスに亡命してフランス王の保護を受け約10年間フランスに滞在し,その間主著《戦争と平和の法De jure belli ac pacis》(1625)を完成している。31年から数年間オランダ,ドイツを流浪しているが,35年スウェーデン女王により駐仏大使に任用され,ふたたびパリに帰っている。しかしここでも大使としての実績はあまり上がらず,彼は学問に熱中していたらしい。この時代の重要な著作は,《旧・新約聖書注解》(1679年に公刊)であり,聖書研究に歴史的・言語学的方法を用いたことが注目される。44年大使解任,翌年スウェーデンにいったん帰国したが,その年の8月,リューベックに向かって旅立ち,途中暴風のため遭難,かろうじてダンチヒ付近に避難上陸し,馬車でリューベックに向かう途中,ロストクにおいて8月28日夜半(正確には29日早朝)疲労のために死亡した。
彼の研究は法律,政治,宗教,歴史,文学,自然科学の多方面にわたるが,その中で後世に大きな影響を残したのは法学の分野においてであり,しばしば〈近代自然法学の父〉〈国際法の祖〉とうたわれている。もっとも,個々の論点については,彼の主張の多くは先人のそれの継承であり,彼の非独創性を指摘する人も少なくない。彼の功績は,おそらく,彼が国際法,公法,私法,教会法等およそ法の全分野にわたって自然法的基礎づけを与えたという点にあるであろう。かくて彼以後は,国際社会にせよ国内社会にせよ,または異宗派相互間の関係にせよ,およそ人間の社会関係にして法的規律に服さないものはないという思想が,はっきりと確立された。彼のこのような活動をささえたものは,人間の理性的本性に対する誠実な信頼であった。理性的・社会的なかつ自由,平等な人間相互間の基本的社会秩序,これが〈自然法〉にほかならない。彼が異宗派相互間の宗教的寛容を熱心に説いたのも,かかる思想の現れにほかならないのである。さらにこのような彼の立場は,自由なかつ世俗化された社会科学の発展を促進した。けだし,宗教的または世俗的権威なるものも,けっきょくは権威それ自体としては義認することができず,理性による批判にさらされなければならないからである。
執筆者:世良 晃志郎
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オランダの法学者、「国際法の父」「自然法の父」とよばれる。デルフトの名門に生まれ、神童の誉(ほま)れ高く、8歳でラテン語の詩をつくり、11歳でライデン大学に入学した。15歳のときオランダ使節団の随員としてフランス国王アンリ4世のもとに使し、国王から「オランダの奇跡」とたたえられ、帰途オルレアンで法学博士の学位を受けた。16歳で弁護士となり、その後法務官、行政長官などの公職にもついた。1619年アルミニウス派と反対派の神学論争をめぐる政治上の紛争に巻き込まれて捕らえられ、終身刑に処されてローフェスタイン城に幽閉された。1621年、妻マリアの助けによって、書物を運ぶ木箱に身を潜めて脱出に成功し、パリに逃れ、ルイ13世の庇護(ひご)を受けた。この間約10年間著述に専念し、主著『戦争と平和の法』De jure belli ac pacis(1625)を完成した。1634年スウェーデンの申し出を受けて、翌1635年から駐仏スウェーデン大使となった。この時代に『旧・新訳聖書注解』を書いた。1645年フランスとスウェーデンが相互に大使を召還したとき、グロティウスはいったんストックホルムに帰った。クリスチナ女王からスウェーデンに定住するように勧められたのを断り、その年(1645)8月リューベックに向け出発したが、暴風のため遭難し、上陸後同地に向かう途中、ロストックで8月28日夜半に没した。
彼の研究は、法律以外にも政治、宗教、歴史など多方面にわたるが、後世にもっとも大きな影響を与えたのは国際法の分野であり、近代自然法の原理によって国際法を基礎づけた。主著『戦争と平和の法』(3巻)は戦争の権利、原因、方法について述べ、初めて国際法学を体系づけた。ほかに『捕獲法論』De jure praedae(1604~1605年執筆、1864年原稿が発見され1868年公刊)、『自由海論』Mare liberum(1609)など。
[池田文雄]
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1583~1645
オランダの法学者,外交官。ライデン大学に学び外交官となったが,宗教上の紛争に巻き込まれてフランス,スウェーデンに亡命。主著『戦争と平和の法』および『海洋自由論』により,国際法および近代自然法の創始者として知られる。
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…これに対して新興海洋国であるオランダ,イギリスなどが激しく反発して海洋の自由を主張した。オランダのグロティウスHugo Grotiusは,1609年に《自由海論 Mare liberum》を出版して,海洋の領有が許されないこと,海洋は自然法によって万人の使用に開放されていることを主張した。一方,この時期になると,イギリスは自国の沖合で操業するオランダ漁船を閉め出すために,一転して,自国に近接する海域の領有を唱え始めた。…
…
[近代国際法の形成]
こうした先行する国家慣行や先駆的学者の活躍を土台にして,17世紀前半に,近代国際法は,その基礎を確立した。すなわち,理論上では,オランダのグロティウスが《自由海論》(1609)や《戦争と平和の法》(1625)などの著作を通じて国際法理論を体系化した。こうした業績により,グロティウスは〈国際法の父〉と呼ばれるようになった。…
…この意味で,新しい近代国家の秩序が,国民軍という権力的基盤と君主の人心収攬(しゆうらん)術によって保たれることを説いたマキアベリは,近代政治学の開祖とされる。また,国家主権を説いたJ.ボーダン,国際法の存在を主張したH.グロティウスは,近代の国家秩序,国際秩序の法的基盤を整備した。 しかし,ルネサンスの時代において,政治における主体は,カトリック的世界秩序から自立して近代国家を担う君主たちだけだった。…
※「グロティウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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