翻訳|peace
社会科学はこれまで,戦争についてほどには平和について知識を蓄積してきていない。実際,戦争の歴史は書かれても,平和の歴史が書かれることはなかった。戦争は激しい情動の源泉であるために,詩歌,文学,絵画,映画などの強いモティーフになってきたが,平和がそれらに占める位置はごくささやかなものにすぎなかった。平和とは失われて初めてその尊さがわかる類のものであり,平和のうちに暮らしているとき,ひとはことさらにそれに思いをはせることはなく,せいぜい平和ならざる他者の不幸との比較において己の平和を自覚するものなのである。その限りで〈真実の平和,それは他のところで戦争が起こっているときのことである〉(ジャック・プレベール)という皮肉な言葉には真理が含まれている。
このように,平和はしばしば戦争の対概念としてとらえられ,それゆえ戦争のない状態が平和だとされる。このような見方は誤りではないが,戦争がなくとも平和であるとはかぎらないから,平和はそれ自体として定義される必要があろう。だがその場合注意すべきことは,平和は文化と時代によってのみか,文化の中心と周辺によってもその意味を変えるということである。それぞれの文化で平和を意味する概念を比較研究し,重点の違いによる意味の異同を整理した石田雄によれば,古代ユダヤ教のシャーロームšālômにおける正義への積極的な志向,ギリシアのエイレネeirēnēやローマのパクスpaxにおける秩序の強調,中国・日本の和平,平和および古代インドのシャーンティśāntiにおける心的状態の重視が,それぞれ平和の重要な構成契機となっている。
確かにどの文化にも平和の意味には正義,豊穣,秩序,静穏,平安のイメージが多少とも共有されている。とはいえ,一般的にいって,西洋キリスト教文明圏では正義実現のための戦いの意思(〈平和のための戦争〉)や征服によって実現された敵国に対するローマの完全支配と,もはや戦争のない状態としての秩序の維持(〈パクス・ローマーナ〉)にみられるように,平和への態度が外向的,政治的であるのに対して,東洋文明圏では逆に,憎しみをもたない心の平安といった内向的,非政治的な態度が支配的である。それは仏教におけるアヒンサーahiṃsā(〈包容力〉〈不殺生〉)に表れているし,また日本人の中世以来の民衆の平和感覚が〈現世安穏,後生善処〉(法華経)であり,よくいえば生活防衛的な,悪くいえば退行的,消極的である点にもみられよう。西洋的な平和観における正義の実現は心の平安のみか,秩序とも矛盾することがありうるが,東洋的なそれでは,逆に受動的な静寂主義へと後退するだけでなく,ときに不正義を放置する事なかれ主義に堕すおそれがあろう。それぞれに長所と短所とがあるのである。
だが,これらの特徴は固定的にとらえられてはならない。なぜなら世界はダイナミックに変化し,したがって支配的な平和の概念も変わっていくからである。異文化間接触による平和の意味の変容がその例である。ガンディーの非暴力〈直接抵抗〉の原理の樹立と実践は,インドの平和観に支配的なアヒンサーと,不正義に対する〈否〉を教えるキリスト教の理念との接触による変容の所産であり,また不正義に力を対置させるアメリカ人の開拓精神とキリスト教文化の伝統のなかにいたM.L.キングの〈非暴力〉直接行動は,逆にガンディーの影響なしにはありえなかったであろう。これらは異文化間の正の学習結果であるが,負の学習もある。神島二郎が規定した馴成社会としての日本は,暴力のみかあらゆる紛争を嫌う〈和〉の政治文化をつくったが,その同じ日本が対外的にはしばしば驚くほど排斥的,暴力的になるのは,いわゆる〈対内道徳〉と〈対外道徳〉の二元性の問題にとどまらず,やはり近代日本の国家エリートが西洋的なパワー・ポリティクスを日本生存の方途として学んだ結果と解釈できよう。
ところで,平和の観念は時代とともに変化する。今日では,〈協定の締結pactum〉および〈戦争の不在absentia belli〉という意味でのパクスが英語のピースpeace,フランス語のペpaixなどとなって,理論的にも,実践的にも支配的な観念として世界に広まっている。ベルサイユの平和,ヤルタの平和にみられるように,外交官ないし政治家は,戦争にまでいたった国家間の特定の敵対関係を終結させるための協定締結に努力し,戦争のない状態を実現したとき,それを平和と呼ぶ。またその延長上に構想され創設されるのが,国際協力を促進し,紛争と対立を公正に解決して戦争の勃発を未然に防ぐ,平和維持組織としての国際機構(国際連盟,国際連合)である。だが,ともに本質的には戦争の勝利者の支配の所産であり,彼らにとっての平和にほかならない。そのことはこのような平和が誰の利益に寄与しているのかをみれば明らかである。それは現状維持status quoに満足し,経済的,軍事的に優越している戦争の勝利者にほかならず,彼らにとって,平和とは,戦争以上に経済的,政治的利益を有するものなのである。いいかえれば,それは文化の中心部にとっての平和であり,周辺部にとっては別の意味をもつ。アントニヌス治下に絶頂期を迎えたローマ帝国におけるパクス・ローマーナ(ローマの平和)とは,帝国の中心部にとっての内部秩序と統一であり,帝国内部の〈戦争の不在〉にすぎず,帝国内外の周辺部(奴隷やバルバロイ)にとっては正義も繁栄も意味せず,略奪,破壊,残虐行為をともなういわば搾取的なシステムであった。ローマに征服されたあとのブリタニア島の住民の皆殺しに関して述べられた,〈彼らは無人の地をつくり,これを平和と呼ぶ〉という言葉は象徴的であろう。だからこそまた,〈汝平和を欲さば,戦争にそなえよsi vis pacem,para bellum〉が,近世以降の西欧国家体系の支配的な平和概念となったのである。要するに中心部である国家の権力エリートにとって,平和とは,新たに建設したうえで維持する価値にほかならない。
だが,周辺部である民衆にとってパクスとはまったく別の意味をもっている。I.イリッチの卓抜な見解によれば,中世ヨーロッパの民衆にとってパクスとは,領主間に戦争がないことなのではなくて,民衆が自分たちに特有の文化を維持していくのに必要最低限の物質的,精神的基盤という意味での存在(サブシステンスsubsistence)の保護であり,その土地の民衆が共有する環境の利用価値が外部の暴力的干渉によって損なわれないことであった。サブシステンスの保護は領主にとっても必要であり,それなしには領主の戦争そのものが成り立たないからである。こうしたサブシステンスの保護を第一義的な目的とする平和は,いわゆる資本主義の勃興と国民国家の建設とともに失われることになる。
現代において支配的な平和はこれらの延長線上に存在している。パクス・アトミカ(核抑止による平和)とパクス・エコノミカ(経済主義による平和)がそれである。ともに世界の中心部によって共有されている平和観といえる。パクス・アトミカは核時代における相互絶滅の恐怖が大戦争の勃発を抑止している状態を指す。その抑止力がなければ,米ソ両超大国は歴史上にしばしばみられたような,〈ポエニ戦争〉を再現したことであろう。実際には冷戦という武装平和がもたらされた。厳密にいえば米ソは互いに相手に軍事的に凌駕(りようが)されるのを恐れて,とめどもない軍備競争に駆り立てられたのである。核戦争の危険を内在させている抑止システムが不安定なゆえんである(軍拡)。加えてこれは,史上最大のポトラッチpotlatchである(G. ブートゥール)。ポトラッチとは民族学では,自己の優越を明示したいときに相互に行う贈与儀式をいう。核開発にかけられた費用と資源の巨大さを想起するならば,まさに至言といわねばならない。パクス・アトミカはまた,世界の中心部にとってのみ〈戦争の不在〉を意味するのにすぎない。第2次大戦後その原因がなんであれおびただしい数の戦争が世界の周辺部,すなわち第三世界で起こっているが,核抑止はそれらの勃発を防ぐことはできなかったことに注意すべきである。
一方,パクス・エコノミカは,ある意味で構造的暴力,すなわち極度の貧困,非衛生的状態,政治的抑圧,文化的疎外,人種差別など社会構造そのものによって与えられる人間の身体・精神に対する侵害などの〈平和ならざる状態〉から民衆を守るものとして考えられよう。経済生活上の水準を高めることは,多少ともそれらの状態を克服するのに役立つからである。それゆえ開発=発展という観念ほど,今日,世界のいたるところに浸透しているものはない。だが開発は生産力至上主義の別称であり,人間は経済的動機によって動くものだとの仮説のもとで,国家と資本という中心部によって計画され,実行される人間生活の大規模な組織化の謂にほかならない。周辺部の民衆にとっては,サブシステンスの剝奪,環境破壊,〈シャドー・ワーク(家事労働など賃金として計算されない労働)〉を互いに相手に押しつけようとする男女間の戦争を意味する。その極北として原子力の平和利用という名の原子力開発があるが,それによって人間の食生活をささえる生業としての漁業や農業が不可能になる状況がつくられつつあるのである。今日,いずこにおいても平和の問題がエコロジーの維持との関連で考えられるのは当然だといえよう。〈暴力としての開発〉に現代人はあまりにも鈍感といわなくてはならない。
戦後日本は非武装化を選択するとともに経済開発に専念した。確かに戦争が不可能という意味では〈平和国家〉となったといえるし,また所得の増大により,貧困の克服,教育=福祉水準の向上を相対的に実現して,人間としての自己実現の機会を高めた。だが同時に,日本の〈乱開発〉ないし〈過剰開発〉は内において民衆の自立的な生活体系を破壊したのみか,彼らを巨大な商品生産と消費の体系に統合し,それに依存させることによって個性的な生き方の可能性を奪い,外に対しては第三世界の周辺部に対する構造的暴力の主体として立ち現れているのである。この矛盾を克服するうえで不可欠なのは,内においては近代的テクノロジーが生みだした新たなサブシステンスを民衆の自立的生活の回復のために利用する方法を模索することであり,外に対しては基本的な人間の必要に寄与できるような適正技術の移転による開発の協力であろう。その点,現在注目されるべきことは,各種の非政府組織(NGO)や市民団体を媒介としたトランスナショナルな活動である(トランスナショナリズム)。そのことはまた,中心部において支配的な平和観念の問い直しを導き,周辺部の平和観念を支配的なものにさせる契機にもなろう。まことに現代における平和の問題は多次元方程式を解くほどに困難な問題になっている。
→戦争 →平和研究
執筆者:高柳 先男
平和思想の起源は,東西の古代宗教の成立期,今から2000~3000年前とみてよい。さまざまな戒律が人間社会の無益な争いをなくし,平安をもたらすために宣言された。たとえば旧約聖書は東西の伝説同様,好戦的要素を含んでいるが,《イザヤ書》の2章4節などには強い平和への願望が見られる。さらに新約聖書の時代にいたって,平和は宗教的戒律だけでなく,人間の努力もないと可能にはならないことが教えられた。
古代ギリシアの《戦史》を記したトゥキュディデスはスパルタの体制は臨戦的で,アテナイの体制は平和志向の体制であるとして賞賛した。プラトンは民主政を享受したソクラテスの弟子であるが,理想国家の安定を求めて,スパルタ風の階級独裁体制の共産国家を考案した。そして,その弟子アリストテレスはその考えを批判し,教育を通して穏やかな中道政治を実現する方策を主張したが,その理想はローマ帝国などの登場によって実現できなかった。
その理想はヨーロッパ中世において,キリスト教神学の骨格として再び想起された。一方,ローマ帝国による覇権を意味する〈ローマの平和pax Romana〉はカトリック教会によるヨーロッパ中世の支配へと受け継がれた。そのなかでアウグスティヌスやトマス・アクイナスによって発展させられたキリスト教神学は,神を頂点とする自然法理論をもたらした。またT.モアは《ユートピア》によって,キリスト教的立場からプラトンの理想国という神政国家を批判的に受容した。
ルネサンスの知的興隆は,一方で学術を発展させ,他方で信仰の衰微をもたらした。自然法の〈神の法〉という要素はうすれ,自然法則と社会規範の峻別(しゆんべつ)の方向へ向かった。T.ホッブズ,H.グロティウスは国家間の戦いのもたらす災厄を救う方途を,正義と悪という区別ではなく,唯物論的自然観に基づく力学の方法で解明した。ホッブズは国家契約という力の集約による平和を,グロティウスは武力均衡と国際法による平和を説いた。これらの考え方は,C.I.C.サン・ピエール,J.J.ルソー,E.deバッテルなどの集団安全保障の考えを生み,その影響で,I.カントは国際連盟の基本構想を考え出した。一方,B.deスピノザは平和の概念を拡大し,戦争のない状態にとどまらず,人間的な解放の実現した状態を平和とした。その背景には,当時〈信仰の自由〉が自由の最大の課題であったことがある。
J.ロックはホッブズの抵抗権を革命権にまで発展させ,また宗教的寛容を説いて,近世人権思想の先駆となった。イギリスはロックの時代に名誉革命(1688)を通じて人民主権を確立した。ロックの思想がアメリカ独立と建国の指導原理となったのはよく知られている。
19世紀は国民国家の興隆と拮抗の時代であった。この時代は,国家理性を他に優先させるG.W.F.ヘーゲルの思想を生み,これがゆがめられた形でナチズムやファシズムといった軍国主義思想や自由放任の社会ダーウィニズムにつながっていった。そして,当然その批判として反国家思想も生まれた。
K.マルクスは階級的支配の機関として国家をとらえ,その消滅が人類解放の条件と説いたが,その理論は誤って継承され,国家の永続性を前提とする社会主義的統制国家への道をひらいた。アメリカでは建国期から反国家の思想は存在したが,その代表はH.D.ソローである。彼はメキシコとの戦争や奴隷制に反対し,納税を拒否したため投獄されたこともある。ロシアではL.N.トルストイがクリミア戦争以来反戦平和を唱え,日本を含む世界中に影響を与えた。インド独立運動の指導者であったM.K.ガンディーもソローとトルストイの反戦思想を賞賛した。またアメリカの反戦思想はクエーカーやメノー派などのキリスト教の運動に顕著にあらわれてきている。
→良心的兵役拒否
第1次大戦以降,世界の先進国は大衆社会の方向へと進んでいった。またソ連邦という社会主義国家が誕生した。これらの動きの中で,人権の拡充が平和のひとつの条件になり得ることが示されてきた。イギリスは,人権のひとつである参政権獲得の運動の先進国であった。また国際的にはアメリカのウィルソン大統領の主唱で国際連盟が誕生したが,第2次大戦で瓦解してしまった。第2次大戦中の平和思想は反ファシズム,国家や軍隊への抵抗の中で生まれてきた。そして第2次大戦は原子爆弾の登場によって終わりを告げ,世界は核の時代に入った。
現代の代表的な平和思想家としては,イギリスのB.A.W.ラッセルをあげることができる。彼は第1次大戦の勃発とともに平和運動に身を投じて以来,1970年の死にいたるまで半世紀以上にわたり,一貫して平和と自由のために活動し,投獄されたこともたびたびである。またラッセルは1954年にA.アインシュタインとともに〈核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明(ラッセル=アインシュタイン宣言)〉を出し,科学者の平和運動にも大きな影響を与えた。
→パグウォッシュ会議
日本の平和思想は,その素朴な形を《古事記》《日本書紀》《万葉集》のなかに見ることができる。戦乱を倦(う)む庶民の気持ちは《万葉集》の歌によく表れている。また聖徳太子の〈十七条憲法〉のなかには〈以和為貴〉の言葉が見られるが,これは仏教精神の法的明示であるといえる。
四方を海で囲まれた日本は,元寇を除き海外からの侵入は受けにくく,とくに江戸時代は鎖国を250年間続けることが可能であった。そのため平和思想家はあまり出ず,江戸中期の安藤昌益,末期の横井小楠がいるぐらいである。しかし明治に入り国際社会に登場し,日清・日露の両戦争を経験し,近代化と天皇制国家の建設が進むにつれて平和思想家,平和主義者が登場してきた(非戦論)。キリスト教の立場からは内村鑑三,柏木義円,社会主義の立場からは木下尚江,幸徳秋水,山川均,トルストイの影響を受けた石川三四郎,徳冨盧花,民主思想に立った吉野作造,斎藤隆夫,尾崎行雄,新聞人桐生悠々,歌人与謝野晶子,反公害運動の田中正造,宗教人の出口王仁三郎などである。
今日の日本の平和思想の骨格は日本国憲法の精神に基づく。この憲法は民主主義と人権,そして平和主義をその根本理念としている。
日本平和学会(1973設立)編の《平和の思想》によると,今日まで人類が考え出した平和の実現策を次の9類型に分けている。(1)国家統一の強化,(2)集団安全保障(安全保障),(3)世界政府論,(4)武力均衡論,(5)道義的アピール,(6)平和教育,(7)心理的アプローチ,(8)分配の平等,(9)官僚の監視,これに,(10)として軍縮を加えた10のパターンが,相互に重なり合った形で現実には提起されている。
真に平和を実現させるものは知識でもなく思想でもない。これら知識と思想を体現した人々の影響力をもった行動であり実践である。これなくして平和思想は画餅でしかない。核におおわれた現代における人類すべてに等しく与えられた任務は,自分たちが生を受けた地球を平和で健康な姿で後世に残すことであろう。
執筆者:小野 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平和の概念は、大きく分類すれば消極的平和と積極的平和との二つに分かれる。この二つの平和概念は、いずれも歴史的かつ文化的な特殊性を帯びていると同時に、他方、それぞれの歴史の位相、文化の位相において普遍的な性格をも示してきた。一定の歴史的・文化的な位相に置かれた平和の概念において中心部と周辺部とで相対立する内容が表明されているようなこともまれではない。そのこと自体、平和概念を検討する際、普遍的性格の理論化を無視できないことを反映している。しかし、平和概念の普遍的性格をその特殊的位相においてとらえることは、かならずしも容易ではない。そこでは理想と現実との間で大きな乖離(かいり)が往々にしてみられるからである。核ミサイルの時代においては、文明のこういった発展段階において、平和のどういった特殊性が普遍的な理論化のなかで位置づけられてグローバルな平和を創出しうるかということが最大の争点となるであろう。現代において平和を探求する究極的課題もまた、ここにあるといわなければならない。
[関 寛治]
消極的平和は戦争の欠如態を意味する。科学技術の発達とともに大規模戦争が非戦闘員の大量虐殺につながるようになったことは、文明の発展段階が高次化したことの逆説的なアイロニーでもあろう。確かに、科学技術が高度に発達した西側あるいは東側先進諸国の間での大規模戦争の頻度は理論的にも現実的にも著しく減少(核時代においてそれはゼロに近づきつつある)した。しかしそれがゼロとならない限り、人類死滅につながりうるような核戦争勃発(ぼっぱつ)の究極の危険性はつねに残る。
これら諸国内で、大規模戦争の歴史的経験が遠ざかるにつれて、平和が失われたときのイメージも風化してゆくのは当然である。今後の戦争を過去の戦争からの類推で専門家も考えるし、素人(しろうと)もまた戦争体験の風化や欠如のゆえにむしろ戦争を古典的な形で美化して描きがちである。戦争が勇気とか献身とか忠誠とかに表現されるような人間倫理にとって好ましい情感の対象としてノンフィクションものや戦記物などで描かれるようになると、その傾向は、敵からのありうべき脅威という宣伝と容易に合流するようになる。次の戦争に対しても、戦争の科学的現実からまったく切り離された主観的、民族主義的なレベルで考えられるようになる。戦争を受け入れ可能な、あるいは場合によっては必要な手段だとみなす人口のパーセントも急激に増加するようになろう。
こういった風潮のクロニカルな(慢性的な)出現を制度的に保障してきたものは、過去において戦争を合法的な問題解決の手段と考えてきた主権国民国家の主権性の根強い残存である。主権国民国家の主権概念は、軍事力と領土と国民との3要素を中核にして組み立てられている。主権国民国家の集合からなるいわゆる歴史的ウェストファリア国際システムでは、戦争と平和との交代的な生起が当然のことでもあった。ここではいずれの主権国民国家も安全保障を国益の中心的価値に据えて、勢力均衡政策によって国益の増大を図ってきたわけである。しかし勢力均衡政策を採用する主要国家は一方で平和の確保を目的としながらも、いったん平和が破られれば戦争に勝利するという態勢を整えておかなければならない。いうまでもなく覇権国家の場合には覇権の安定性を死活的に重要視するから、それを確保すること自体を平和の第一条件とするようになる。覇権秩序維持のためには、圧倒的な軍事力による世界的戦略体制が築かれざるをえない。しかし覇権国家に対する軍事的挑戦国家が現れれば、ナンバーワンの地位を継続的に確保しなければならないということで国民的ストレスも著しく増大する。挑戦を受けた覇権国家は優越性が脅かされる閾値(しきいち)に近づくと、なりふりかまわず軍事力を増強し、いざとなれば勝利しうる戦略を求めて軍拡競争が未曽有(みぞう)の規模で激化することになりかねない。
第二次世界大戦後の挑戦国家、ソ連はなんとかして覇権国家アメリカと均等の地位に達することで安全保障を全うしようとしてきた。軍事的側面で挑戦国に原理的になりえない国は、覇権国と挑戦国とのいずれかの陣営と同盟関係を結び、いわゆる核の傘に入ろうとする。それによって平和を維持する政策を採用することが同盟諸国にとっては普通のことになった。これら同盟国に対しては、覇権国家の定義した国際公共財(たとえば安全保障費用)への貢献が平和のために要求される。しかし周辺部諸国のなかには、同盟関係から離脱して非同盟・中立に近づくことによって平和と安全とを求める国々の数も増大する。歴史的・文化的位相の違いからする平和概念(国際公共財概念を含む)の特殊的多様化は、平和概念の普遍的性格とオーバーラップしながら開花することになるのである。すなわちここでは、すでに消極的平和概念は積極的平和概念と密接に連係しあう関係に置かれている。
[関 寛治]
積極的平和概念は、グローバルなレベルでの覇権国家による平和(=大規模戦争の欠如態)が三つの点で著しく不安定な平和であることを示すことによって自らの正当性を主張する。積極的平和概念は、いずれにせよ、パックス・アメリカーナによる平和が現実には平和なき状態(ピースレスネス)であるという議論を出発点にせざるをえない。平和の両定義が中核に位置づけられるのもここに根拠がある。
まず第一に、科学技術の発達とともに核ミサイルの命中精度が著しく向上したので、第一撃に対抗する確証相互破壊(MAD)が崩壊し、核抑止の安定性が失われる。現在、最先端的な地位にある核戦略家の認識が、この点では先進国内部の反核平和運動のリーダーによっても共有されるようになった。核戦略の内在的矛盾の発展の結果としての核戦争の危機は、いわゆる偶発、誤算、事故などによる核戦争勃発の確率をも著しく高めざるをえない。覇権国家による消極的平和は崩壊寸前なのである。
第二に、核抑止戦略体制下でもおびただしい数の戦争が、世界の周辺部で、すなわち第三世界や第四世界の内部で起こっている。核抑止戦略下では消極的平和が安定的であるに応じて、それに比例するように第三世界での通常戦争や、ゲリラ戦争、または国家間あるいは国家内対立に関係したテロリズム頻発の傾向が高まっている。これは覇権国のための覇権国による消極的平和がパックス・アメリカーナの衰退のなかで自ら内在的にもつアイロニーであろう。覇権国家下の平和は、たとえ大規模核戦争を避けることに成功したにせよ、消極的平和概念によって定義されてきた戦争の欠如態さえも実現していない。
第三に、この議論がいっそう推し進められると、核戦争の危機や通常戦争あるいはゲリラ戦争の多発をもたらした根本的要因がもともと覇権国家間の消極的平和概念のなかに内包されていたのではないかという理論にまで到達しえよう。この理論が構造的暴力概念を広義に解釈したピースレスネスの概念にまでつながりうるのは当然である。ピースレスネスとは具体的には、極度の貧困、非衛生状態、政治的抑圧、文化的疎外、人種差別、非識字などであるが、これらはいずれも構造的暴力によって生み出されている。それ自体が人間の身体・精神の自由に対する侵害である。こういった広義の構造的暴力が存在している限り、安全価値を追求するべきもともとの前提条件さえも満たされていない。広義の構造的暴力は、グローバルな覇権国家中心の秩序を維持するための垂直な支配形態のネットワーク形成の力学によって生み出されている。覇権国家交代が繰り返される秩序そのものの変革がなされない限り戦争の根絶は不可能である。覇権国家下の消極的平和は、こういったことを論拠とすれば、間違った平和理論によって基礎づけられているといえる。
[関 寛治]
しかし消極的平和と積極的平和とを以上のようなレベルで定義づける限り、相互の対立によって表面化するトレード・オフ(矛盾)関係はきわめて深刻な局面を迎える。構造的暴力の除去を非暴力的に達成する理論を発展させない限り、デッドエンドである。構造的暴力の除去そのものが直接に戦争につながる危険性もある。
アメリカ平和研究のパイオニア、ラパポートは、完全な健康よりは、病気そのものが医学の研究対象になってきたのだから、平和研究でも、構造的暴力の欠如した理想的状態よりは、戦争そのものに焦点をあてることが関心の中心に置かれなければならないと述べている(『広島平和科学』)。ラパポートはまた、戦争原因は絶えざる脅威を構成しているがゆえに、それを実証的に認識することは容易であり、それと闘う方法も脅威の性質に応じてさまざまな方法で探求が可能であると結論する。これに反して究極的善、すなわちいっさいの構造的暴力の除去は、哲学的概念としては意味があっても実際的平和を確保したり実現したりするためにかならずしも適切な研究対象になりえないと述べ、それが実現不可能であるとも論ずる。
1983年から86年までIPRA(国際平和研究学会)事務局長を務めたアルジャーは、経験主義的アプローチで許されるすべての手段の採用によって、消極的平和を確保し実現するための提案を行う。過去において政府と非政府機関とのいずれの政策決定者もこのように広い手段をけっして全面的には用いようとしなかった。消極的平和の達成が失敗した理由もここにある。アルジャーはこう述べて、次の八つのカテゴリーに分類される手段を列挙する。(1)軍事力の利用と管理、(2)第三者の役割、(3)政治権力の集中と統一、(4)人民、集団、個人の自決、(5)経済的福祉と公正、(6)草の根の運動、(7)非暴力、(8)公共財の支配。これら八つのカテゴリーはそれぞれのなかでさらに細分化され、合計23の手段が提案されている(Alger : The Quest for Peace)。このアプローチでは積極的平和概念に基づくピースレスネスの諸問題(核戦争の脅威、軍事独裁、飢餓、文化的疎外、人種差別など)の具体的などれか一つだけを取り上げ、これこそいちばん優先的に解決さるべき課題だと主張する姿勢に対して批判的である。アルジャーによれば、特定の状況から生まれた積極的平和にとっての問題点を、他の状況から生まれた問題点に優先させて後者を第二次的なものとして扱うならば、20世紀後半の人類の相互依存の深化状況や構造的暴力の諸次元を実際上理解不能に陥れてしまう。それぞれの解決手段も、それらが出現した歴史的状況に照らして効果が判定されるべきである。こうしてアルジャーは今後25年間の平和戦略の策定にあたっても、数多くの手段をそれぞれの状況に応じて全面的に活用するべしと説き、そのための研究調査の必要性に言及する。
アルジャー的アプローチでは、積極的平和概念の重要性を認めながらも、個々の問題点の除去に直接突進するのではなく、消極的平和概念を状況に応じて経験的に連結させながら平和状態を創造しようとする。覇権国家中心の平和理論を乗り越える平和のグランド・セオリーはいまなおできていない。アルジャー的アプローチが平和概念との関係でより実際的である理由もここにある。
しかしポスト覇権システムの平和理論を軍事的、経済的、学術文化的の3ネットワーク間の進化によって把握するためには、地球的発展へ向かっての離陸をどうしたら創出できるかについての限界発展要因(各時点で突出した発展要因)の継起的序列を描き出す必要がある。日本の歴史的経験では、教育研究レベルの継起的発展段階を通して過去の発展の軌跡を描きうる。現代の限界発展要因は教育・研究のハイテク化・情報化・国際化であり、かつ世界的ネットワーク化でもあるという結論になろう。この段階において消極的平和の条件が積極的平和の条件と共鳴現象をおこせば両者のトレード・オフ関係も消失し、真の地球的発展への離陸がおこることになろう。ここではホリスティック=テクノクラティックな対話(具体的には指導者と技術者との対話)も成立し、この対話が地球的発展への離陸の触媒にもなりえよう。
[関 寛治]
積極的平和概念をもっとも広い意味で把握しているのは文化的平和概念である。古代ユダヤ教のシャーロームにおける正義への志向、古代ギリシアのエイレネや古代ローマのパックスにおける秩序への志向、中国や日本の和平・平和および古代インドのシャーンテイにおける心的状態の重視はその例である。さらに仏教の涅槃(ねはん)では最高の負のエントロピーの状態が表現される。平和を創出するうえで仏教の役割は、構造的暴力を完全に欠いた最高の平和=涅槃の実現である。しかし涅槃(=完全平和)は実現不可能であるから、理想世界を観念的に描くにとどまりがちである(スリランカの激化する人種紛争のなかで仏教思想のもつ意味は示唆的である)。このような文脈において日本経済の地球的拡大が地球的規模での発展への離陸にどう貢献しうるかという観点が必要になる。アルジャー的アプローチをこの枠組みのなかに位置づければ、構造的暴力除去に向かってもより現実的かつ理想主義的な一歩が踏み出されよう。日本文化もこの次元で初めて世界平和に貢献しうるのである。
[関 寛治]
『Johan GaltungTwenty-Five Years of Peace Research : Ten Challenges and Some Responses, J.P.R., vol.14, No.1 (1977)』▽『E.K.BouldingTwelve Friendly Quarrels with Johan Galtung, J.P.R., vol.22, No.2(1985)』▽『C.F.AlgerThe Quest for Peace, Quarterly Report., vol.11, No.2(1986, The Ohio State University)』▽『高村忠成編訳『平和の創造と宗教』(1986・第三文明社)』
愛知県西部、中島郡にあった旧町名(平和町(ちょう))。現在は稲沢(いなざわ)市の南部を占める一地区。旧平和町は1954年(昭和29)に町制施行。2005年(平成17)稲沢市に編入。名古屋鉄道尾西(びさい)線、国道155号が通じる。日光川の中流域に位置し、デルタ地帯での稲作が中心である。特産は明治時代のウドやフキから水耕ミツバ、水耕トマトへと変わり全国的に有名。パセリの栽培も盛ん。1985年当時工業の80%以上を占めた毛織物も減少しつつある。大和朝廷の屯倉(みやけ)と伝える地や織田信長出生の城として知られる勝幡(しょばた)城跡(一部は現愛西市)、16世紀建立の仁王門が残る長福寺がある。
[伊藤郷平]
『『平和町誌』(1982・平和町)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…インド人ばかりでなく,イスラム教徒も左手は排便する手として食事用の右手と峻別する。 アリストファネスの《蛙(かえる)》その他のギリシア喜劇に排泄に関する弄言(ろうげん)が多いのは,この不浄観を利用して笑いを誘う意図からであるが,とくに《平和》(前421上演)ではくそ食い黄金虫にくそだんごを与えて巨大にしたトリュガイオスが,神馬ペガソスを操るベロレフォンよろしくこれに乗って,天上にあるゼウスの館(やかた)にたどり着くという筋書が,性の話題とないまぜになっている。なお,くそ食い黄金虫,すなわちスカラベはフンコロガシ,タマオシコガネとも称される甲虫の1種で,ファーブルの《昆虫記》での記述,また古代エジプトでは聖なる虫として崇拝されたことで有名である。…
※「平和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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