アルブレヒト(英語表記)Albrecht von Brandenburg

デジタル大辞泉 「アルブレヒト」の意味・読み・例文・類語

アルブレヒト(Albrecht)

(4世)[1447~1508]バイエルン公。在位1463~1508(1463~1467は兄ジギスムントと共同統治)。所領細分化を防ぐため分割相続禁止を布告した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルブレヒト」の意味・わかりやすい解説

アルブレヒト[ブランデンブルク]
Albrecht von Brandenburg

[生]1100頃
[没]1170.11.18.
ブランデンブルク辺境伯。「熊伯」Albrecht der Bärの異名をもつ。ザクセンの貴族アスカニエル家の出身で,両親の死後ザクセンの広大な領土を受け継いだ。またブランデンブルク侯プリビスラウスとの協定で,死後,その領地を獲得,ブランデンブルク辺境伯の称号を名のり,その地に低地ドイツ人を移住させ,ブランデンブルク辺境伯領の基礎をつくった。ホーエンシュタウフェン朝フリードリヒ1世治下の神聖ローマ帝国の重要な官職を受け,1162年にはフリードリヒ1世の北イタリア,ロンバルディア諸都市への遠征に従ってイタリアへ赴き,ミラノの強襲で名をあげた。たびたびウェルフェン家と争い,ザクセン公領を失ったが,フリードリヒ1世とウェルフェン家のハインリヒ獅子公との対立に際し,1164年ハインリヒに対する諸侯連合を形成し,フリードリヒの帝国政策を助けた。

アルブレヒト[マインツ]
Albrecht von Mainz

[生]1490.6.28.
[没]1545.9.24. マインツ
ドイツ,マインツの聖職者。ブランデンブルク選帝侯ヨハン・キケロの次男。 1513年マクデブルクの大司教,14年マインツの大司教になったが,それに要した費用をフッガー家から借り,その返済にあてるため贖宥状 (免罪符 ) を販売。これが 17年ルターの「九十五ヵ条の提題」による宗教改革運動の開始を招いた。 18年枢機卿になり,19年の神聖ローマ皇帝選挙では多額の金と引替えに,のちのカルル5世を支持。彼は人文主義を尊重し,初めプロテスタントに寛大であったが,ドイツ農民戦争 (1524~25) 以後カトリックを支持するようになった。

アルブレヒト[プロシア公]
アルブレヒト[プロシアこう]
Albrecht

[生]1490.5.17. アンスバハ
[没]1568.3.20. タピアウ
ドイツ騎士団国家最後の首長 (在位 1510~25) ,初代のプロシア公 (在位 25~68) 。アンスバハ系のホーエンツォレルン家の生れで,母がポーランド王女だったことから,1510年ドイツ騎士団長に選ばれた。ポーランドとの戦争 (19~21) で国土が荒廃したのち,M.ルターの助言を得て,25年に宗教改革を行い,プロシア公を名のった。ケーニヒスベルク大学 (44) の創立者としても著名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「アルブレヒト」の解説

アルブレヒト Albrecht, Mikhail P.

1821-? ロシアの医師。
安政5年(1858)初代ロシア箱館領事ゴシケビッチとともに,領事館付医師として来日。医療活動のかたわら植物,昆虫,貝などを採集し,日本初の機器による気象観測をおこなった。帰国後1870年ごろ死去。エストニア出身。

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367日誕生日大事典 「アルブレヒト」の解説

アルブレヒト

生年月日:1490年5月17日
最後のドイツ騎士団長,最初のプロシア公
1568年没

アルブレヒト

生年月日:1817年8月3日
オーストリア大公
1895年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアルブレヒトの言及

【カルマル同盟】より

…とくに1389‐1434年のデンマーク,ノルウェー,スウェーデン(フィンランドを含む)3王国間の同君連合をいう。上記の時期以前から,スウェーデン・ノルウェー間で(1319‐43),またデンマーク・ノルウェー間で(1380‐1814)同君連合が成立しており,1389年デンマーク・ノルウェーの摂政マルグレーテ1世がスウェーデンの摂政に選ばれ,スウェーデン王メクレンブルク家のアルブレヒトAlbrecht(1340ころ‐1412)を,スウェーデン貴族の支援をうけてファルヒェーピングFalköpingの戦で捕囚とし,彼女は事実上の3王国の支配者となった。97年スウェーデンのデンマーク国境に近いカルマルKalmar城で最初の3国共通の君主が,3国の貴族らによって選ばれ,マルグレーテの姉の孫にあたる15歳のポンメルンのエリク(7世)が3国の王となり,それによりこの連合は〈カルマル同盟〉と呼ばれる。…

【ブランデンブルク】より

…辺境伯ゲロGero(?‐965)は,940年ごろエルベ川以東を征服し,キリスト教化の拠点として司教座ブランデンブルクを建設したが,その後ウェンド人は反乱をくりかえし,983年,ドイツ人はエルベ川の線まで後退を余儀なくされた。1134年,アスカニア家AskanierのアルブレヒトAlbrecht der Bär(?‐1170)が,このエルベ以西(アルトマルク)の辺境伯に封ぜられると,彼は57年までの間にエルベ川以東のスラブ人を再び服属せしめ,またさかんに北西部ドイツから移民を誘致して村や町を建て,みずからブランデンブルク辺境伯と称した。アルブレヒトのあとを継ぐアスカニア家の辺境伯たちのもとで,ブランデンブルクの領域はさらに東方へ拡張され,13世紀の後半にはオーデル川の彼岸(ノイマルク)まで進出,それと並行してドイツ人の植民も推進された。…

【プロイセン】より

…ここに再びポーランドとの戦争が始まり,その結果,66年,トルンの和約で西プロイセンの全域および東プロイセン内のエルムラントはポーランドに割譲され,東プロイセンの残部領域もポーランドの宗主権下に置かれることとなった。
[プロイセン公国]
 1511年ドイツ騎士修道会総長にホーエンツォレルン家のアルブレヒトAlbrechtが選ばれると,彼は25年ルター主義に改宗,騎士修道会領を世俗化して,これをポーランド王から封土として授与され,ここにプロイセン公国Herzogtum Preussenが成立した。アルブレヒトは行政・財政を改革し,教会秩序を整え,ケーニヒスベルク大学を創立(1544)するなど,模範的な領邦君主であった。…

【ホーエンツォレルン家】より

…1415年,城伯フリードリヒ6世は,皇帝ジギスムントによってブランデンブルク辺境伯に封ぜられ,選帝侯の位をも得た。その後も同家の経営はフランケンに中心を置いていたが,73年,選帝侯アルブレヒト・アヒレスの家法により,長子ヨハン・ツィツェロがブランデンブルクを相続して以来,同国は一貫して彼の直系により統治されることとなる。 1510年,フランケン系から出たアルブレヒトがドイツ騎士修道会総長に選ばれ,同騎士修道会の領邦プロイセンの統治に当たったが,彼は25年ルター主義に改宗して,初代のプロイセン公となった。…

※「アルブレヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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